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Posted by おてもやん at

2011年02月15日

駅弁ばんざい 人吉駅 鮎寿司

◆駅弁ばんざい 人吉駅
鮎寿司
 



注)この記事は、日刊たわらやかわら版にて 2006年02月27日に紹介した記事です。

序文 2004年05月11日以来久々に駅弁の記事を書きます。私は1983年10月10日に国鉄全線に乗ろうと決め90年03月まであしかけ8年全国249線区の旅に出ました。8年間で旅した数三十有余回。
 当時、全国各地の赤字ローカル線が次々に姿を消していった。廃止になるローカル線には何か惹かれる郷愁があった。駅弁にも似たものがある。駅弁は本来ならばご当地の駅でのみ買えるものであるのだが、最近は百貨店の祭事にお目見えして、遠くに居てもご当地の駅弁を堪能できるようになった。私は旅を通じて多くの駅弁と地酒に出会った。「駅弁ばんざい」では、私の独断と偏見で美味しい駅弁をご紹介する。この記事を見て食べたくなった方は、どうか、ご当地まで行って、車窓を眺めながら駅弁を食べることをお奨めする。時間に贅沢な旅…いいもんです。

 さて、今回ご紹介する弁当は、肥薩線人吉駅の鮎寿司(やまぐち)。

 八代駅から分岐する肥薩線は球磨川に沿って、川の両岸を縫うように上流へ上流へと向かって走る。日本三代急流の一つと言われる球磨川だが、急流は昔のもの。現在は県営荒瀬ダムなどいくつかのダムが建設され、堰き止められ、ダム湖のおだやかな水面に沿って鉄道が走る。
 球磨川の鮎というよりは、球磨川の支流・川辺川の清流でとれる鮎が有名。清流の川面のコケや藻を食べて、長さ30cmを越える尺鮎が採れる。こんな大型の鮎は全国的にみても珍しい。川辺川は人吉で、本流球磨川と合流する。球磨川のその上流部に市房ダムがあり、川は褐色を呈して淀んでいる。川辺川は美しき清流。合流部に立ってみると色があまりにも違う。
 余談が長くなった。清流で育った鮎を背開きにして、内蔵・背骨を落とし、うす塩をまいて冷温で一時放置。酢、砂糖、塩、昆布などに合わせたものに漬け込み、酢飯で鮎を包むと出来上がりなのだ。
 人吉・やまぐちの鮎はお腹がピンク~黄色をしており、鮎の上品な香味。何とも言えない。山葵が鮎と寿司飯の間にある。山葵があるのは全国的にみてもここだけかも。同じ鮎寿司は京都・園部駅、岐阜・岐阜駅にもあるが山葵はない。
 昆布と酢の〆具合が絶妙。この駅弁と球磨焼酎を飲みながら、車窓の眺めを楽しむのは、実にいいもんだ。
  


Posted by たわらや at 19:16Comments(0)

2011年02月15日

分かりやすい清酒醸造学 №11 泡なし酵母って何?その3

-分かりやすい醸造学- №11
泡なし酵母って何 その3


前回の続き

◆ 1億分の1を釣り上げる?

 1億個ある多数派の泡あり酵母の中に1個混じり込んだ少数派の泡なし酵母を釣り上げる!。太公望も顔負けの気の遠くなる話です。ここで発想の逆転が功を奏しました。多数派を追い出して目的とする少数派を残す方法を考えつきました。そうです。気泡と仲良しの多数派をブクブクと泡を立てて追い出してやるのです。高価な装置も技術も不要です。熱帯魚の水槽で使うあのブクブクで目的を達成できました!。

◆ あらゆる「きょうかい清酒酵母」に泡なしのラインアップが完成

 この方法を使って、主な「きょうかい清酒酵母」全ての泡なし株を揃えることができました。そのために、仕込みタンクの有効率が高まり、泡守(あわもり)の不寝番もお役御免になりました。今や、「きょうかい清酒酵母○○-01号」と末尾に01が付いた「泡なし酵母」は日本醸造協会から頒布される清酒酵母の約7割を占めるに至っています。この研究を完成させたのは、醸造試験所(当時)の秋山裕一、大内弘造、布川弥太郎、熊谷知栄子の各博士をリーダーとするプロジェクトチームでした。


◆ 何故、清酒酵母だけが生きられる?。

 もろみは通常3段に分けて仕込みます。段仕込み、三段仕込みという言い方をします。最初が初添え(もしくは「添え」)、翌々日が仲添え、最後が留添えです。

 最初の初添えの時、もっとも雑菌やバクテリアの汚染にさらされる可能性が高いです。雑菌やバクテリアの増殖が清酒酵母の増殖よりも早いと腐造(ふぞう)となります。

 このようなことを防ぐために、酒母の造り方が大事になります。

・酒母の中で、優良な清酒酵母だけが純粋培養されて、雑菌や野生酵母、バクテリアなどがないこと。
・優良な清酒酵母だけが大量に生きている。
・優良な清酒酵母がモロミを発酵させる力がある。
・酒母に必要充分な量の乳酸を有している。
の4つで腐造を防ぐことができます。

  


Posted by たわらや at 05:59Comments(0)

2011年02月15日

仰清正公 №5 加藤虎之助となる

■第5話「加藤虎之助となる」

 「栄光富士」醸造元(山形県鶴岡市大山)の加藤家には全国の加藤姓の人がルーツ探しにやってこられます。私(篠田次郎)は酒蔵の設計の途中で、そういう人と何人も出会いました。

 加藤という姓は比較的に多い。それが山形県鶴岡市大山の加藤家に寄ってくるのだから、迎えるほうはたいへんだと同情するしかありません。

 なぜこの加藤家が有名化というと、戦国武将で熊本城の主、加藤清正の子孫だからということになるのですね。

 歴史にうとい私は、加藤家は熊本で途絶えていたと思っていました。途絶えないまでも、その後、徳川時代や明治以降に加藤の名をとどろかした人がいません。いなかったわけでもないでしょうが、いなかった同様の存在だったと思います(失礼)。それがどんないきさつで、みちのくは庄内藩・鶴岡へ移り住んだのか、これは蔵元の故・加藤有倫前社長と付き合っているうちに明らかになるのでしょう。

 ではかの有名な加藤清正という人はどんな人だったのか。勝手に調べてみました。ネタ本は村上元三の小説「加藤清正」などです。
 小説家が伝記小説を書くとき、どこまで歴史の真実を探るのでしょうか。450年も前のことだ。見てきたようなホラなのか作り話なのか。村上元三の小説をたどりましょう。

ですからいまから400~450年も前のお話です。



 加藤清正公は、永禄5年1562年の生まれです。

 清正の幼名は「夜叉丸」といい、尾張国中村という小さい集落で、鍛冶屋をやっていた父・加藤弾正衛門清忠のやんちゃ息子だったといいます

 清忠の父は、因幡守清信ですが、美濃の斉藤道三の旗本で、織田信長と戦い討ち死にしました。その息子、清忠は本気になって武家を興そうとは考えていなかったようです。38歳で脳溢血死の際、夜叉丸に虎之助と名乗らせます。

 そこで虎之助は近江長浜城主の木下藤吉郎の足軽頭になっている叔父加藤喜左衛門を頼り、藤吉郎秀吉にお目見えする。藤吉郎の生母と虎之助の母がいとこ同士ということもあってか、五石七人扶持で召抱えられる。13歳のことです。

 加藤清正の二代前は、武士で加藤姓を名乗っていたんですね。

  


Posted by たわらや at 05:56Comments(0)