2011年02月15日
仰清正公 №5 加藤虎之助となる
■第5話「加藤虎之助となる」
「栄光富士」醸造元(山形県鶴岡市大山)の加藤家には全国の加藤姓の人がルーツ探しにやってこられます。私(篠田次郎)は酒蔵の設計の途中で、そういう人と何人も出会いました。
加藤という姓は比較的に多い。それが山形県鶴岡市大山の加藤家に寄ってくるのだから、迎えるほうはたいへんだと同情するしかありません。
なぜこの加藤家が有名化というと、戦国武将で熊本城の主、加藤清正の子孫だからということになるのですね。
歴史にうとい私は、加藤家は熊本で途絶えていたと思っていました。途絶えないまでも、その後、徳川時代や明治以降に加藤の名をとどろかした人がいません。いなかったわけでもないでしょうが、いなかった同様の存在だったと思います(失礼)。それがどんないきさつで、みちのくは庄内藩・鶴岡へ移り住んだのか、これは蔵元の故・加藤有倫前社長と付き合っているうちに明らかになるのでしょう。
ではかの有名な加藤清正という人はどんな人だったのか。勝手に調べてみました。ネタ本は村上元三の小説「加藤清正」などです。
小説家が伝記小説を書くとき、どこまで歴史の真実を探るのでしょうか。450年も前のことだ。見てきたようなホラなのか作り話なのか。村上元三の小説をたどりましょう。
ですからいまから400~450年も前のお話です。
加藤清正公は、永禄5年1562年の生まれです。
清正の幼名は「夜叉丸」といい、尾張国中村という小さい集落で、鍛冶屋をやっていた父・加藤弾正衛門清忠のやんちゃ息子だったといいます
清忠の父は、因幡守清信ですが、美濃の斉藤道三の旗本で、織田信長と戦い討ち死にしました。その息子、清忠は本気になって武家を興そうとは考えていなかったようです。38歳で脳溢血死の際、夜叉丸に虎之助と名乗らせます。
そこで虎之助は近江長浜城主の木下藤吉郎の足軽頭になっている叔父加藤喜左衛門を頼り、藤吉郎秀吉にお目見えする。藤吉郎の生母と虎之助の母がいとこ同士ということもあってか、五石七人扶持で召抱えられる。13歳のことです。
加藤清正の二代前は、武士で加藤姓を名乗っていたんですね。
「栄光富士」醸造元(山形県鶴岡市大山)の加藤家には全国の加藤姓の人がルーツ探しにやってこられます。私(篠田次郎)は酒蔵の設計の途中で、そういう人と何人も出会いました。
加藤という姓は比較的に多い。それが山形県鶴岡市大山の加藤家に寄ってくるのだから、迎えるほうはたいへんだと同情するしかありません。
なぜこの加藤家が有名化というと、戦国武将で熊本城の主、加藤清正の子孫だからということになるのですね。
歴史にうとい私は、加藤家は熊本で途絶えていたと思っていました。途絶えないまでも、その後、徳川時代や明治以降に加藤の名をとどろかした人がいません。いなかったわけでもないでしょうが、いなかった同様の存在だったと思います(失礼)。それがどんないきさつで、みちのくは庄内藩・鶴岡へ移り住んだのか、これは蔵元の故・加藤有倫前社長と付き合っているうちに明らかになるのでしょう。
ではかの有名な加藤清正という人はどんな人だったのか。勝手に調べてみました。ネタ本は村上元三の小説「加藤清正」などです。
小説家が伝記小説を書くとき、どこまで歴史の真実を探るのでしょうか。450年も前のことだ。見てきたようなホラなのか作り話なのか。村上元三の小説をたどりましょう。
ですからいまから400~450年も前のお話です。
加藤清正公は、永禄5年1562年の生まれです。
清正の幼名は「夜叉丸」といい、尾張国中村という小さい集落で、鍛冶屋をやっていた父・加藤弾正衛門清忠のやんちゃ息子だったといいます
清忠の父は、因幡守清信ですが、美濃の斉藤道三の旗本で、織田信長と戦い討ち死にしました。その息子、清忠は本気になって武家を興そうとは考えていなかったようです。38歳で脳溢血死の際、夜叉丸に虎之助と名乗らせます。
そこで虎之助は近江長浜城主の木下藤吉郎の足軽頭になっている叔父加藤喜左衛門を頼り、藤吉郎秀吉にお目見えする。藤吉郎の生母と虎之助の母がいとこ同士ということもあってか、五石七人扶持で召抱えられる。13歳のことです。
加藤清正の二代前は、武士で加藤姓を名乗っていたんですね。
Posted by たわらや at 05:56│Comments(0)