2011年01月31日
知っているようで知らない酒の話№127 千石蔵と労務管理
知っているようで知らない酒の話 №127
-千石蔵と労務管理-
■ 千石蔵が全国へ広がる
10石仕舞で、100日酒造りを行いますと、1000石の白米を、1000石の日本酒にすることになります。(昨日述べた)一年の厳冬期に一つの蔵で酒を仕込む量が千石です。そこで千石蔵と呼ばれるようになりました。
千石蔵が標準化されるようになりますと、一日に10石の米を蒸すための釜、仕込み樽、使う道具も標準化されれ、職人によって作り出されるようになります。標準化されることによって、無駄なく、無理なく、品質のよい酒をコンスタントに造り続けることができます。現在でいう自動車産業のベルトコンベアーのように、同じ作業を毎日繰り返すことによって酒を造り方法が取られました。安定して美酒ができるようになります。
江戸では灘の生一本の誉があがります。他地域(他藩)の酒蔵は、品質の高い灘の千石蔵を模倣するようになることは当然です。また、灘の流儀で酒を造る技術を持つ杜氏や蔵人をひと冬雇い入れる蔵もあったでしょう。プロ野球でいう、助っ人外人のようにも思えます。
明治以降、全国各地で、千石蔵が登場することになります。あなたの最寄りの酒蔵も、おそらく千石蔵かもしれませんよ。
■ 杜氏集団
柚木学著「酒造りの歴史」の本の中で、「仕込み期間の100日への短縮と量産化の技術が確立され、酒造マニュファクチュアの定型を確立する」と書かれてあります。
仕込工程に従事する蔵人たちの集団、杜氏を筆頭に、頭(かしら)、衛門(えもん)=代師(だいし)、釜屋(かまや)、上人(じょうびと)・下人(げにん)、飯焚(ままたき)等の職名で標準化されます。灘だけでなく全国の酒蔵で、使われるようになり、季節労働の制度として、ごく最近まで使われました。
千石蔵で上記の蔵人たちの集団は総勢約40名。若い蔵人は先ずは飯焚からスタートして、技を習得すると上の部署に格上げとなるのです。
酒づくりは、杜氏に対して請け負い契約の形で行われていましたので、酒づくりが終わる時に、ひと冬分の給料がチームの監督である杜氏に支払われ、分配されていたようです。
ひと冬100日、前後の作業を併せて120日・4カ月で、一年分の給料をもらう名杜氏もいました。杜氏の家は、農家としても篤農家で、牛や馬もいて、農業で稼ぎ、酒づくりでも稼ぐ。村の憧れの的であったでしょう。40名の蔵人をまとめるということで、酒づくりの技術のさることながら、人間として、リーダーとしての素養も兼備した人格者でした。
-千石蔵と労務管理-
■ 千石蔵が全国へ広がる
10石仕舞で、100日酒造りを行いますと、1000石の白米を、1000石の日本酒にすることになります。(昨日述べた)一年の厳冬期に一つの蔵で酒を仕込む量が千石です。そこで千石蔵と呼ばれるようになりました。
千石蔵が標準化されるようになりますと、一日に10石の米を蒸すための釜、仕込み樽、使う道具も標準化されれ、職人によって作り出されるようになります。標準化されることによって、無駄なく、無理なく、品質のよい酒をコンスタントに造り続けることができます。現在でいう自動車産業のベルトコンベアーのように、同じ作業を毎日繰り返すことによって酒を造り方法が取られました。安定して美酒ができるようになります。
江戸では灘の生一本の誉があがります。他地域(他藩)の酒蔵は、品質の高い灘の千石蔵を模倣するようになることは当然です。また、灘の流儀で酒を造る技術を持つ杜氏や蔵人をひと冬雇い入れる蔵もあったでしょう。プロ野球でいう、助っ人外人のようにも思えます。
明治以降、全国各地で、千石蔵が登場することになります。あなたの最寄りの酒蔵も、おそらく千石蔵かもしれませんよ。
■ 杜氏集団
柚木学著「酒造りの歴史」の本の中で、「仕込み期間の100日への短縮と量産化の技術が確立され、酒造マニュファクチュアの定型を確立する」と書かれてあります。
仕込工程に従事する蔵人たちの集団、杜氏を筆頭に、頭(かしら)、衛門(えもん)=代師(だいし)、釜屋(かまや)、上人(じょうびと)・下人(げにん)、飯焚(ままたき)等の職名で標準化されます。灘だけでなく全国の酒蔵で、使われるようになり、季節労働の制度として、ごく最近まで使われました。
千石蔵で上記の蔵人たちの集団は総勢約40名。若い蔵人は先ずは飯焚からスタートして、技を習得すると上の部署に格上げとなるのです。
酒づくりは、杜氏に対して請け負い契約の形で行われていましたので、酒づくりが終わる時に、ひと冬分の給料がチームの監督である杜氏に支払われ、分配されていたようです。
ひと冬100日、前後の作業を併せて120日・4カ月で、一年分の給料をもらう名杜氏もいました。杜氏の家は、農家としても篤農家で、牛や馬もいて、農業で稼ぎ、酒づくりでも稼ぐ。村の憧れの的であったでしょう。40名の蔵人をまとめるということで、酒づくりの技術のさることながら、人間として、リーダーとしての素養も兼備した人格者でした。
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06:23
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2011年01月30日
分かりやすい清酒醸造学 №6 麹米を造る②
strong>分かりやすい醸造学-6‐麹米をつくる②
◆ 麹室2日目
次の日の朝、昨日盛り上げていた麹米は一粒一粒に小さな白い点が見え始めてきます。これは麹の菌糸で、これが見え始めてくると発熱します。このまま大きく盛り上げていると、どんどん温度が上がってしまうので、いったん小分けにしてやります。このときに、どのような入れ物に入れてやるかで、「大箱法」や「麹蓋法」というように呼ばれます。大箱法は約30kgづつ盛る大き目の箱で、麹蓋法は約1kgづつ盛る小さな箱のことを言います。麹を入れる箱は正月前に餅を搗き、置いておく木製の箱(モロブタ)のようなものです。この箱が小さければ小さいほど数が増えますが、その分麹を乾燥させることができます。大吟醸などはこの麹蓋法でやる蔵が多いのはそのような理由からです。しかし数が多い分とても管理に神経を使い、寝る暇がなくなってくるのです。
さて、この後約36℃で仲仕事と言って一度麹に手入れをしてやります。丁寧にかき混ぜて、温度の上昇を押さえてやります。放置しておくとそのまま温度が上がっていってしまい、米の外側だけに菌糸が伸びてしまいます。ゆっくりと温度を上げます。麹の菌糸は米の中に中に入り込んでいくようにします。
米を蒸す時に「外硬内柔」に蒸すことを説明しました。内側に水分を多くし、外側を乾燥させておけば、麹は水分を求めて米の中に中に菌糸を伸ばすのです。菌糸はアミラーゼという糖化酵素を造ります。
米の内部の澱粉は糖分に変わります。例えるならば糖分のカプセルを造っているのです。外側が硬いカプセルで、内側は糖化された糖分。これが、酵母の醗酵の速度によって、じわりじわりとモロミに溶け込んでゆくのです。
この後約39℃になったらもう一度手を入れてやり、蓋いっぱいに大きく広げてやります。このころになると、麹自体の発熱が室温を上回ります。最後は43℃くらいまで温度が上がり、そのまま10時間以上40℃以上の温度を持続させます。
こうして麹が出来上がり、一度乾燥室に持っていき丸一日温度を下げ乾燥させてから使います。
麹を麹室から出すことを出麹(でこうじ)といいます。麹室に入れ、出麹するまで48時間(2昼夜)の時間を要します。

千代の園酒造の麹室にて
仕舞仕事を行う宇野功一。
麹米に「美味しい酒になって・・・」とつぶやきながら作業を行う。作業は深夜0時。麹は生き物なので、あっという間に温度が上がる。麹は人間が発熱しているのと同じぐらい発熱しています。生きているんですね。
◆ 麹室2日目
次の日の朝、昨日盛り上げていた麹米は一粒一粒に小さな白い点が見え始めてきます。これは麹の菌糸で、これが見え始めてくると発熱します。このまま大きく盛り上げていると、どんどん温度が上がってしまうので、いったん小分けにしてやります。このときに、どのような入れ物に入れてやるかで、「大箱法」や「麹蓋法」というように呼ばれます。大箱法は約30kgづつ盛る大き目の箱で、麹蓋法は約1kgづつ盛る小さな箱のことを言います。麹を入れる箱は正月前に餅を搗き、置いておく木製の箱(モロブタ)のようなものです。この箱が小さければ小さいほど数が増えますが、その分麹を乾燥させることができます。大吟醸などはこの麹蓋法でやる蔵が多いのはそのような理由からです。しかし数が多い分とても管理に神経を使い、寝る暇がなくなってくるのです。
さて、この後約36℃で仲仕事と言って一度麹に手入れをしてやります。丁寧にかき混ぜて、温度の上昇を押さえてやります。放置しておくとそのまま温度が上がっていってしまい、米の外側だけに菌糸が伸びてしまいます。ゆっくりと温度を上げます。麹の菌糸は米の中に中に入り込んでいくようにします。
米を蒸す時に「外硬内柔」に蒸すことを説明しました。内側に水分を多くし、外側を乾燥させておけば、麹は水分を求めて米の中に中に菌糸を伸ばすのです。菌糸はアミラーゼという糖化酵素を造ります。
米の内部の澱粉は糖分に変わります。例えるならば糖分のカプセルを造っているのです。外側が硬いカプセルで、内側は糖化された糖分。これが、酵母の醗酵の速度によって、じわりじわりとモロミに溶け込んでゆくのです。
この後約39℃になったらもう一度手を入れてやり、蓋いっぱいに大きく広げてやります。このころになると、麹自体の発熱が室温を上回ります。最後は43℃くらいまで温度が上がり、そのまま10時間以上40℃以上の温度を持続させます。
こうして麹が出来上がり、一度乾燥室に持っていき丸一日温度を下げ乾燥させてから使います。
麹を麹室から出すことを出麹(でこうじ)といいます。麹室に入れ、出麹するまで48時間(2昼夜)の時間を要します。

千代の園酒造の麹室にて
仕舞仕事を行う宇野功一。
麹米に「美味しい酒になって・・・」とつぶやきながら作業を行う。作業は深夜0時。麹は生き物なので、あっという間に温度が上がる。麹は人間が発熱しているのと同じぐらい発熱しています。生きているんですね。
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2011年01月29日
分かりやすい醸造学-5‐麹米をつくる①
分かりやすい醸造学-5‐麹米をつくる①
■ 麹米を造る
前回、麹(菌)の役割を書きました。日本酒の特徴の一つに、麹菌が作り出した酵素による、米のデンプン質の糖化反応と、糖化された糖分を酵母が消化するアルコール発酵反応が同時に進行します。そうすることで、日本酒は世界の醸造酒の中で最も高濃度のアルコールを造り出すことができるのです。「糖化」と「アルコール発酵」を同時に行うことを、並行複発酵といいます。
◆ 蒸した米を冷やす(放冷)
蒸しあがった白米は高温であるため、適度な温度(約35℃)に急速に冷やす必要があります。放冷機という機械を使って冷やすことが普通ですが、吟醸酒や大吟醸の仕込みでは、機械を使って冷やさず、蔵の廊下などに広げて、自然に冷まします。
筵(むしろ)の上に、蒸し上がった米を広げて冷やすという原始的なやり方をします。
◆ 麹室で麹をつくる
約35℃で冷ました蒸米を麹室に引き込みます。ここで床いっぱいに広げ種麹を振り掛けます。この時、網よりも目の細かいシルクの袋を使い、純粋に菌糸だけを降りかけます。
種麹の使用量は添麹で100kgに対し30g、仲麹で100kgに対し20g、留麹で100kgに対し10g使用します。
種麹を振り掛けた後、約32℃になったら山のように盛り上げて、これ以上温度が下がらないように毛布を被せます。そして約8時間後の夕方には、朝盛り上げた麹米を一度広げて揉みほぐし、もう一度盛り上げて次の朝まで待ちます。
(写真:天吹酒造 種つけの様子。天吹酒造ブログ平成23年1月16日参照)
■ 麹米を造る
前回、麹(菌)の役割を書きました。日本酒の特徴の一つに、麹菌が作り出した酵素による、米のデンプン質の糖化反応と、糖化された糖分を酵母が消化するアルコール発酵反応が同時に進行します。そうすることで、日本酒は世界の醸造酒の中で最も高濃度のアルコールを造り出すことができるのです。「糖化」と「アルコール発酵」を同時に行うことを、並行複発酵といいます。
◆ 蒸した米を冷やす(放冷)
蒸しあがった白米は高温であるため、適度な温度(約35℃)に急速に冷やす必要があります。放冷機という機械を使って冷やすことが普通ですが、吟醸酒や大吟醸の仕込みでは、機械を使って冷やさず、蔵の廊下などに広げて、自然に冷まします。
筵(むしろ)の上に、蒸し上がった米を広げて冷やすという原始的なやり方をします。
◆ 麹室で麹をつくる
約35℃で冷ました蒸米を麹室に引き込みます。ここで床いっぱいに広げ種麹を振り掛けます。この時、網よりも目の細かいシルクの袋を使い、純粋に菌糸だけを降りかけます。
種麹の使用量は添麹で100kgに対し30g、仲麹で100kgに対し20g、留麹で100kgに対し10g使用します。
種麹を振り掛けた後、約32℃になったら山のように盛り上げて、これ以上温度が下がらないように毛布を被せます。そして約8時間後の夕方には、朝盛り上げた麹米を一度広げて揉みほぐし、もう一度盛り上げて次の朝まで待ちます。
(写真:天吹酒造 種つけの様子。天吹酒造ブログ平成23年1月16日参照)

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2011年01月28日
天狗舞 五凛 純米大吟醸生酒 22BY入荷
-日本酒を楽しもう 先ずは一献-№214
天狗舞 五凛 純米大吟醸生酒
1800ml:3990円
720ml:1995円
製造元:㈱車多酒造
石川県白山市坊丸町60番地1
◆ 車多酒造「天狗舞」の酒蔵
創業文政六年(1823年)。初代蔵元 車多太右衛門が諸国行脚の折に口にした各地の酒の旨さが忘れられず、自らの居するこの地に酒蔵を構え、旨い酒をとの一心で酒造りをはじめたという。あの時、蔵はうっそうたる森に囲まれており、木々の葉のすれあう音がまるで天狗の舞う音に聞こえたそうです。その謂れから、『天狗舞』の酒銘は生まれたそうです。米の旨みを十二分に引き出す酒づくりの技法の一つである「山廃仕込み」を連綿と受継ぎ、「旨味」豊か、味わい深い酒を造っています。
◆ 新ブランド・~五凛について~
日本酒は美味しい。多くの若者の気持ちが日本酒へ向かう呼び水となり、日本酒の未来を築きたい。そのために、最初の一歩となる【感動】を呼び起こすお酒を醸したい。その思いから醸したお酒が五凛です。
①酒質を設計し販売する蔵元
②酒を醸す杜氏と蔵人
③蔵の思いとお客様の思いをつなぐ酒販店様
④最適な状態で酒をサーブしてくれる飲食店様
⑤酒を楽しまれるお客様
その五者が常に凛とした関係であり、凛とした酒を楽しんで頂けるように思いを込め、五凛Go-RINと名付けたそうです。(車多一成 専務 説明)
◆ 春先の限定酒
五凛 純米大吟醸生酒 21BYについて
大吟醸クラスの搾りには、特別な搾り方をしています。袋吊りといわれる搾り方で、酒袋にもろみを入れ、その自重でお酒と酒粕を分離する方法です。その後、槽(ふね)と呼ばれるものに、酒袋を段々に重ねてその自重で搾ります。(最初にでてくるお酒を「槽走り」とか「あらばしり」ともいいます)それで搾りきれたら、今度は上から圧力をかけて搾ります(その時のお酒を「おし」とか「せめ」といいます)。
今回の写真は、槽走りの状態の槽(ふね)の写真です。
■今年の五凛は『芳醇&繊細』
手頃な価格で、真摯な純米大吟醸。そして、グビグビ飲める酒質。これまでの五凛の酒質を踏襲しています。例年以上に今年の酒は、しっかりした米の旨味を含んでおり、それでいてソフト=繊細な酒質です。上々の加賀の美酒です。
【お酒の履歴書】
原料米:山田錦(兵庫県産)
精米歩合:40%(麹米、掛米とも)
日本酒度:+3.0
酸度:1.2
アミノ酸度:1.1
アルコール度数:16.4%
酵母:金沢系自家酵母

天狗舞 五凛 純米大吟醸生酒
1800ml:3990円
720ml:1995円
製造元:㈱車多酒造
石川県白山市坊丸町60番地1
◆ 車多酒造「天狗舞」の酒蔵
創業文政六年(1823年)。初代蔵元 車多太右衛門が諸国行脚の折に口にした各地の酒の旨さが忘れられず、自らの居するこの地に酒蔵を構え、旨い酒をとの一心で酒造りをはじめたという。あの時、蔵はうっそうたる森に囲まれており、木々の葉のすれあう音がまるで天狗の舞う音に聞こえたそうです。その謂れから、『天狗舞』の酒銘は生まれたそうです。米の旨みを十二分に引き出す酒づくりの技法の一つである「山廃仕込み」を連綿と受継ぎ、「旨味」豊か、味わい深い酒を造っています。
◆ 新ブランド・~五凛について~
日本酒は美味しい。多くの若者の気持ちが日本酒へ向かう呼び水となり、日本酒の未来を築きたい。そのために、最初の一歩となる【感動】を呼び起こすお酒を醸したい。その思いから醸したお酒が五凛です。
①酒質を設計し販売する蔵元
②酒を醸す杜氏と蔵人
③蔵の思いとお客様の思いをつなぐ酒販店様
④最適な状態で酒をサーブしてくれる飲食店様
⑤酒を楽しまれるお客様
その五者が常に凛とした関係であり、凛とした酒を楽しんで頂けるように思いを込め、五凛Go-RINと名付けたそうです。(車多一成 専務 説明)
◆ 春先の限定酒
五凛 純米大吟醸生酒 21BYについて
大吟醸クラスの搾りには、特別な搾り方をしています。袋吊りといわれる搾り方で、酒袋にもろみを入れ、その自重でお酒と酒粕を分離する方法です。その後、槽(ふね)と呼ばれるものに、酒袋を段々に重ねてその自重で搾ります。(最初にでてくるお酒を「槽走り」とか「あらばしり」ともいいます)それで搾りきれたら、今度は上から圧力をかけて搾ります(その時のお酒を「おし」とか「せめ」といいます)。
今回の写真は、槽走りの状態の槽(ふね)の写真です。
■今年の五凛は『芳醇&繊細』
手頃な価格で、真摯な純米大吟醸。そして、グビグビ飲める酒質。これまでの五凛の酒質を踏襲しています。例年以上に今年の酒は、しっかりした米の旨味を含んでおり、それでいてソフト=繊細な酒質です。上々の加賀の美酒です。
【お酒の履歴書】
原料米:山田錦(兵庫県産)
精米歩合:40%(麹米、掛米とも)
日本酒度:+3.0
酸度:1.2
アミノ酸度:1.1
アルコール度数:16.4%
酵母:金沢系自家酵母

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2011年01月28日
分かりやすい清酒醸造学 №4 麹菌
分かりやすい醸造学-4‐麹菌
■ 麹菌の果たす役割は?
世界の三大醸造酒として、「日本酒」「ワイン」「ビール」があります。醸造酒というのは、原料の糖分を、酵母によって発酵をさせ、糖分をアルコールに変えることです。出来た液体を搾ったものが酒ということになります。
ワインはブドウから造られます。ブドウの中には糖分であるブドウ糖がたくさん含まれます。ブドウの皮の表面には酵母も付着していますので、搾った途端、自然に発酵が始まります。
ビールは麦から造られます。麦の中には麦芽糖が含まれます。麦に水を含ませて、発芽させます。これを麦芽といいます。麦芽になれば、種の内部で、麦芽糖と糖分に変える酵素がたくさん造られます。それにより麦芽糖はどんどん糖分に変わります。麦芽汁には多くの糖分が含まれており、これを発酵させたものがビールということになります。
では、日本酒です。日本酒は米から造られます。米は8割がデンプンから出来ています。糖分は全く入っていません。また、デンプンは水やお湯に溶けることはありません。このままでは酵母によって発酵することができないのです。
ここで登場してくるのが『麹菌』です。麹菌は生き物ではありません。カビの一種です。
学名は、アスペルギルス・オリゼ
(Aspergillus oryzae)(黄麹菌)
アスペルギルス・アワモリ(黒麹菌)
アスペルギルス・カワチ(白麹菌)
といいます。
麹菌の働きは?
蒸した米に「種麹」という麹菌の胞子を撒きます。胞子は蒸した米の表面に付着しますと、菌糸を伸ばし、米の表面を覆うようになります。麹菌はさまざまな酵素を作り出します。一番多く造るのが糖化酵素(アミラーゼ)です。これは人間の唾液の中にも含まれているものです。ご飯を暫く噛んでいると甘くなることを体験的にみなさんご存知と思います。これは米のデンプンがアミラーゼによって糖に分解され、舌上で糖を感じて脳に甘味の信号を発信して、甘いと認識するのです。昔の酒づくりに若い女性に口噛みしたものを醗酵させた口噛酒がありました。人間の唾液のアミラーゼを利用したものです。
つまり、麹菌の作り出すアミラーゼを活用して、米のデンプンを糖化させているのです。
■ 麹菌の果たす役割は?
世界の三大醸造酒として、「日本酒」「ワイン」「ビール」があります。醸造酒というのは、原料の糖分を、酵母によって発酵をさせ、糖分をアルコールに変えることです。出来た液体を搾ったものが酒ということになります。
ワインはブドウから造られます。ブドウの中には糖分であるブドウ糖がたくさん含まれます。ブドウの皮の表面には酵母も付着していますので、搾った途端、自然に発酵が始まります。
ビールは麦から造られます。麦の中には麦芽糖が含まれます。麦に水を含ませて、発芽させます。これを麦芽といいます。麦芽になれば、種の内部で、麦芽糖と糖分に変える酵素がたくさん造られます。それにより麦芽糖はどんどん糖分に変わります。麦芽汁には多くの糖分が含まれており、これを発酵させたものがビールということになります。
では、日本酒です。日本酒は米から造られます。米は8割がデンプンから出来ています。糖分は全く入っていません。また、デンプンは水やお湯に溶けることはありません。このままでは酵母によって発酵することができないのです。
ここで登場してくるのが『麹菌』です。麹菌は生き物ではありません。カビの一種です。
学名は、アスペルギルス・オリゼ
(Aspergillus oryzae)(黄麹菌)
アスペルギルス・アワモリ(黒麹菌)
アスペルギルス・カワチ(白麹菌)
といいます。
麹菌の働きは?
蒸した米に「種麹」という麹菌の胞子を撒きます。胞子は蒸した米の表面に付着しますと、菌糸を伸ばし、米の表面を覆うようになります。麹菌はさまざまな酵素を作り出します。一番多く造るのが糖化酵素(アミラーゼ)です。これは人間の唾液の中にも含まれているものです。ご飯を暫く噛んでいると甘くなることを体験的にみなさんご存知と思います。これは米のデンプンがアミラーゼによって糖に分解され、舌上で糖を感じて脳に甘味の信号を発信して、甘いと認識するのです。昔の酒づくりに若い女性に口噛みしたものを醗酵させた口噛酒がありました。人間の唾液のアミラーゼを利用したものです。
つまり、麹菌の作り出すアミラーゼを活用して、米のデンプンを糖化させているのです。
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2011年01月27日
宮原 25° 球磨焼酎:宮原酒造場
球磨焼酎 宮原 25°
1800ml:2100円、720ml:1200円
◆ 正調球磨の味わいここにあり。
~宮原~新発売
バックボーン
熊本の南部・清流球磨川と川辺川の大河が流れる人吉球磨盆地。大きな大河は、肥沃な土壌をもたらし、人吉盆地は豊穣な穀倉地帯です。
球磨焼酎の歴史は400余年。鎌倉時代から明治維新まで、この土地を治めた相良氏。江戸時代、人吉・相良藩は23000石の禄高でしたが、実際は5万石とも10万石とも言われていました。余った米をふんだんに使い、贅沢な蒸留酒・球磨焼酎が誕生したのです。
◆ 新たな宮原酒造場スタンダードが『宮原』です。
2011年01月26日に『宮原』が入荷しました。宮原酒造場・宮原淳一郎社長が直接持って来てくれました。その時に、この酒が産まれるまでの経緯を聞かせていただきました。
①地米ヒノヒカリで造る。
原料米は地元・あさぎり町産ヒノヒカリを100%使用しています。自分たちの食べるお米で仕込んでいます。意外に思うかもしれませんが、これはたいへん贅沢なことなのです。純米焼酎といいながら、原料はどんな米でも焼酎は造れるのです。極論はデンプンがありさえすれば、発酵させて、蒸留させて焼酎ができます。
定番となる球磨焼酎は、上質な原料を使うことは決してありません。原料の価格が各段に安価で、どこで収穫したか分からない原料米となります。
ヒノヒカリを蒸し上げます。ほくほくとした上々の蒸し。あまり粘りを出さずに炊き上げるとのこと。食べて旨い米を、炊くのではなく、蒸すということはそのためです。
②手造り麹
宮原酒造場では伝統的な手作り麹づくりを行っています。大吟醸を仕込むように麹もろ蓋を使用して、丁寧に麹を造っています。『宮原』も合手作り麹です。
③カメ壺仕込み
一次仕込みで酒母を造ります。カメ壺で仕込みます。一週間後、別のカメ壺を使って、三倍量に増やし二次仕込み。二次仕込みもカメ壺仕込みです。琺瑯タンクと違って、大量に仕込むことができませんが、小仕込みで造ることにより、柔らかな酒質に出来上がるということでした。
④減圧蒸留
ライト感覚で飲みやすい減圧蒸留を採用しました。
⑤3年・長期熟成
できた焼酎44°の原酒の状態で3年以上じっくり熟成させました。
芳醇な香りを放ち、円熟みを帯びた酒珠。各段に優れた酒質に脱帽します。イチオシの球磨焼酎です。
1800ml:2100円、720ml:1200円
◆ 正調球磨の味わいここにあり。
~宮原~新発売
バックボーン
熊本の南部・清流球磨川と川辺川の大河が流れる人吉球磨盆地。大きな大河は、肥沃な土壌をもたらし、人吉盆地は豊穣な穀倉地帯です。
球磨焼酎の歴史は400余年。鎌倉時代から明治維新まで、この土地を治めた相良氏。江戸時代、人吉・相良藩は23000石の禄高でしたが、実際は5万石とも10万石とも言われていました。余った米をふんだんに使い、贅沢な蒸留酒・球磨焼酎が誕生したのです。
◆ 新たな宮原酒造場スタンダードが『宮原』です。
2011年01月26日に『宮原』が入荷しました。宮原酒造場・宮原淳一郎社長が直接持って来てくれました。その時に、この酒が産まれるまでの経緯を聞かせていただきました。
①地米ヒノヒカリで造る。
原料米は地元・あさぎり町産ヒノヒカリを100%使用しています。自分たちの食べるお米で仕込んでいます。意外に思うかもしれませんが、これはたいへん贅沢なことなのです。純米焼酎といいながら、原料はどんな米でも焼酎は造れるのです。極論はデンプンがありさえすれば、発酵させて、蒸留させて焼酎ができます。
定番となる球磨焼酎は、上質な原料を使うことは決してありません。原料の価格が各段に安価で、どこで収穫したか分からない原料米となります。
ヒノヒカリを蒸し上げます。ほくほくとした上々の蒸し。あまり粘りを出さずに炊き上げるとのこと。食べて旨い米を、炊くのではなく、蒸すということはそのためです。
②手造り麹
宮原酒造場では伝統的な手作り麹づくりを行っています。大吟醸を仕込むように麹もろ蓋を使用して、丁寧に麹を造っています。『宮原』も合手作り麹です。
③カメ壺仕込み
一次仕込みで酒母を造ります。カメ壺で仕込みます。一週間後、別のカメ壺を使って、三倍量に増やし二次仕込み。二次仕込みもカメ壺仕込みです。琺瑯タンクと違って、大量に仕込むことができませんが、小仕込みで造ることにより、柔らかな酒質に出来上がるということでした。
④減圧蒸留
ライト感覚で飲みやすい減圧蒸留を採用しました。
⑤3年・長期熟成
できた焼酎44°の原酒の状態で3年以上じっくり熟成させました。
芳醇な香りを放ち、円熟みを帯びた酒珠。各段に優れた酒質に脱帽します。イチオシの球磨焼酎です。
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2011年01月26日
コラム・呑んどっと №15 日本酒の会を主催してみよう
コラム・呑んどっと15 日本酒の会を主催してみよう
昨日(2011年01月25日)、阿蘇郡小国町宮原の『役場んまえ咲いた』というお料理屋さんで、第25回・日本酒を楽しむ会が開催されました。地元の日本酒ファン19名が集いました。
店主・松崎裕子さんは大の日本酒好き。2005年(平成17年)01月に第1回を開催いたしました。季節のお料理と日本酒を愛でる会です。春夏秋冬、年に1回開催してきました。今回で25回目を数えます。7年目を迎えます。
乾杯に先立ち、店主・松崎さんの挨拶。
「普段の生活がつつがなく過ごせることは幸せです。このように皆様と日本酒を楽しむ会ができることはたいへん幸せです。」というご挨拶。
お客様の乾杯のご発生で会がスタートしました。
季節のお料理と日本酒7品。6種類は今年の新米新酒の生酒。1種類は生酛純米酒を熱燗で出しました。
酒宴にはルールがあります。東京・幻の日本酒の日本酒を飲む会を主催している篠田次郎先生のルールと同じく、
①ただで酒を飲まない。
②きき酒能力を問わない。
③どの酒が良かったと決めつけない。
以上、誰でも守れる三カ条です。
酒宴は2時間半。19名で、一升瓶7本が全て空っぽ。一人平均4合を飲んだことになります。ビールもなし。乾杯からひたすら日本酒。
25回を開催しますが、参加者が乱れたり、喧嘩したりが一切なし。美味しいの会に集まる酒友はいつも和やか。美味しいお料理と美味しいお酒のお蔭かもしれません。
〆の挨拶は、地元の警察署長さん。今年還暦を迎えられ、現役の警察官で参加するのはこれが最後。
「この会に出会えたことに心から感謝。また、この会が継続することを希望します。引退後は、市内にいる妻と一緒に参加したい」
という挨拶。店主も私も感動しました。
お開きの後、警察署長さんが、
「私も日本酒の会、主催できるだろうか?」
「よか酒ば、飲み比べて楽しいかぁ~。よか酒ば好きな人は、よか人だもんなぁ~」
とつぶやかれました。
「どぎゃんするとよかろうか?」
「酒の好きな方が3名いたら、酒の会はできます。」と。
難しく考えるのではなく、どうぞ、私に相談してください。よか酒、よか料理、よか友が集い、普段の酒、普段の料理が、忘れられぬものになりますよ。改めて、酒の会はよかねと思った酒宴でした。
昨日(2011年01月25日)、阿蘇郡小国町宮原の『役場んまえ咲いた』というお料理屋さんで、第25回・日本酒を楽しむ会が開催されました。地元の日本酒ファン19名が集いました。
店主・松崎裕子さんは大の日本酒好き。2005年(平成17年)01月に第1回を開催いたしました。季節のお料理と日本酒を愛でる会です。春夏秋冬、年に1回開催してきました。今回で25回目を数えます。7年目を迎えます。
乾杯に先立ち、店主・松崎さんの挨拶。
「普段の生活がつつがなく過ごせることは幸せです。このように皆様と日本酒を楽しむ会ができることはたいへん幸せです。」というご挨拶。
お客様の乾杯のご発生で会がスタートしました。
季節のお料理と日本酒7品。6種類は今年の新米新酒の生酒。1種類は生酛純米酒を熱燗で出しました。
酒宴にはルールがあります。東京・幻の日本酒の日本酒を飲む会を主催している篠田次郎先生のルールと同じく、
①ただで酒を飲まない。
②きき酒能力を問わない。
③どの酒が良かったと決めつけない。
以上、誰でも守れる三カ条です。
酒宴は2時間半。19名で、一升瓶7本が全て空っぽ。一人平均4合を飲んだことになります。ビールもなし。乾杯からひたすら日本酒。
25回を開催しますが、参加者が乱れたり、喧嘩したりが一切なし。美味しいの会に集まる酒友はいつも和やか。美味しいお料理と美味しいお酒のお蔭かもしれません。
〆の挨拶は、地元の警察署長さん。今年還暦を迎えられ、現役の警察官で参加するのはこれが最後。
「この会に出会えたことに心から感謝。また、この会が継続することを希望します。引退後は、市内にいる妻と一緒に参加したい」
という挨拶。店主も私も感動しました。
お開きの後、警察署長さんが、
「私も日本酒の会、主催できるだろうか?」
「よか酒ば、飲み比べて楽しいかぁ~。よか酒ば好きな人は、よか人だもんなぁ~」
とつぶやかれました。
「どぎゃんするとよかろうか?」
「酒の好きな方が3名いたら、酒の会はできます。」と。
難しく考えるのではなく、どうぞ、私に相談してください。よか酒、よか料理、よか友が集い、普段の酒、普段の料理が、忘れられぬものになりますよ。改めて、酒の会はよかねと思った酒宴でした。
タグ :日本酒の会
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2011年01月25日
天狗納豆-日本のうまかもん-
宇野功一の選んだ『日本のうまかもん』 №1
天狗納豆(水戸)
◆ 天狗納豆のそぼろ納豆
私の好物の一つが納豆です。納豆の消費地は、東日本なんですが、何故か、熊本は飛び地的に納豆の消費が多い県です。これは後で述べるとして、好物の天狗納豆のそぼろ納豆をご紹介します。
東京・上野駅の常磐線プラットホームのキヨスクには、藁つとに入った天狗納豆が販売してあります。知っているという方も多いのでは。何と言っても、赤い天狗の図柄がインパクトがあります。
幕末維新において、先駆的に活動をしていた水戸天狗党。創業者・笹沼清左衛門は、天狗党の思いを仕事に活かしたと考え、近代的な納豆製造業を起業化。商品名を天狗納豆で売り出したということです。
常磐線も水戸まで伸びて、水戸偕楽園の梅をめでる見物客が、水戸天狗納豆を手土産に持って帰ったそうです。小粒の納豆は瞬く間に有名になりました。
余談ですが、鉄道が走ることによって名物が生まれる最も元祖が天狗納豆であったと思います。現在では新幹線の延伸で名物が生まれます。仙台の牛タンや笹かま、博多の辛子明太子などなど。九州新幹線延伸で、熊本からも新しい名物が誕生するかもしれませんね。楽しみです。
この天狗納豆に、国産の切干大根をまぶしたものが「そぼろ納豆」です。シャキシャキとした切干の歯ごたえと、納豆と切干の独特の味わい。病みつきになりそうな味です。アツアツの白ごはんにかけて食べてもよし。私は、酒の肴に「そぼろ納豆」を食べます。九州では売っているお店がないため、天狗納豆の通販を利用すると購入できます。
◆ 余談・なぜ熊本は納豆の消費が多いのだろう
熊本の納豆の消費量は年間1人当たり40パック。これは東京と並ぶ量です。西日本でダントツの消費量です。
1592年の文禄の役で、加藤清正公は秀吉の命によって朝鮮へ出兵。戦いは惨憺たるもので、食糧を十分に確保できずにいました。煮た豆を米俵に入れて運び、馬の体温で煮豆は発酵が始まりました。糸を引く煮豆をしかたなく食べることになった清正公。食べてみるとなんと美味。この出来事から、熊本は納豆を食する文化が生まれたと言われています。
その納豆大好きな私がお薦めするのが天狗納豆「そぼろ納豆」です。
天狗納豆(水戸)
◆ 天狗納豆のそぼろ納豆
私の好物の一つが納豆です。納豆の消費地は、東日本なんですが、何故か、熊本は飛び地的に納豆の消費が多い県です。これは後で述べるとして、好物の天狗納豆のそぼろ納豆をご紹介します。
東京・上野駅の常磐線プラットホームのキヨスクには、藁つとに入った天狗納豆が販売してあります。知っているという方も多いのでは。何と言っても、赤い天狗の図柄がインパクトがあります。
幕末維新において、先駆的に活動をしていた水戸天狗党。創業者・笹沼清左衛門は、天狗党の思いを仕事に活かしたと考え、近代的な納豆製造業を起業化。商品名を天狗納豆で売り出したということです。
常磐線も水戸まで伸びて、水戸偕楽園の梅をめでる見物客が、水戸天狗納豆を手土産に持って帰ったそうです。小粒の納豆は瞬く間に有名になりました。
余談ですが、鉄道が走ることによって名物が生まれる最も元祖が天狗納豆であったと思います。現在では新幹線の延伸で名物が生まれます。仙台の牛タンや笹かま、博多の辛子明太子などなど。九州新幹線延伸で、熊本からも新しい名物が誕生するかもしれませんね。楽しみです。
この天狗納豆に、国産の切干大根をまぶしたものが「そぼろ納豆」です。シャキシャキとした切干の歯ごたえと、納豆と切干の独特の味わい。病みつきになりそうな味です。アツアツの白ごはんにかけて食べてもよし。私は、酒の肴に「そぼろ納豆」を食べます。九州では売っているお店がないため、天狗納豆の通販を利用すると購入できます。
◆ 余談・なぜ熊本は納豆の消費が多いのだろう
熊本の納豆の消費量は年間1人当たり40パック。これは東京と並ぶ量です。西日本でダントツの消費量です。
1592年の文禄の役で、加藤清正公は秀吉の命によって朝鮮へ出兵。戦いは惨憺たるもので、食糧を十分に確保できずにいました。煮た豆を米俵に入れて運び、馬の体温で煮豆は発酵が始まりました。糸を引く煮豆をしかたなく食べることになった清正公。食べてみるとなんと美味。この出来事から、熊本は納豆を食する文化が生まれたと言われています。
その納豆大好きな私がお薦めするのが天狗納豆「そぼろ納豆」です。
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2011年01月24日
お江の時代の日本酒 戦国時代から江戸時代の酒
お江の時代の日本酒 戦国時代から江戸時代の酒
◆ お江の時代の日本酒
今年のNHK大河ドラマは『江』(ごう)ですね。浅井長政とお市の間に産まれた姫様です。長女の茶々は後の世の淀君。次女の初は京極家へ嫁ぎます。主人公の江は二代将軍・徳川秀忠に嫁ぎます。三代将軍家光の母であり、大阪冬の陣・夏の陣では、姉と戦うことになります。まさに激動の時代を生きた女性の一生を描いたものでしょう。
さて、戦国の後期の日本酒はどんなものだったのでしょうか?。
この時代、日本酒を醸したところとして、城下町や門前町の商人、お寺や神社などで醸されていました。
流通も活発であったのでしょう。京都(洛中)では、各地の日本酒が集まり、品質・価格で競争があっていたようです。その中で、品質が優れて有名になったブランド酒があります。
・摂津西宮の旨酒
・加賀の菊酒
・博多の練貫酒
・伊豆の江川酒
・近江坂本の酒
・備前児島の酒
・尾道三原の酒
・豊前小倉の酒
・伏見の酒
加藤百一著「日本の酒 5,000年」技報堂出版より抜粋
◆諸白の登場と三段仕込み
戦国時代後半に「菩提泉」で名声を博した大和菩提山正歴寺で麹米・掛米の両方を、精白米を使った「諸白酒」が造られました。これ以前は、麹米は精米した米を使い、掛米はあまり精米しない片白酒が主流でした。全量を精米するということは、たいへん贅沢なことでした。
16世紀には、それまで京で最も評価の高かった河内天野山金剛寺の「天野酒(あまのしゅ)」と肩を並べるようになりました。この南都諸白はまもなく天野酒をも凌駕し、「天下一」の評判を得るようになります。
室町時代から戦国時代にかけて、三段仕込みの技術が確立されたと言われています。それと、寒造りが一般的となります。現在の酒づくりの原型が完成した時代です。
◆太閤秀吉も菊姫ファンだった。
創業は天正年間(1573~91年)頃。石川県鶴来町にある菊姫は、霊峰「富士山」・「立山」と並ぶ日本三名山の一つである白山連峰の麓にあります。古来より、芳醇な美酒と呼ばれてきた「加賀之菊酒」は、「太閤記」が伝えるところによると、太閤秀吉が醍醐の花見に、是非にといってわざわざ取り寄せたという譽高き天下の銘酒でありました。
きっと、戦国に姫たちも飲んだことでしょう。
◆ お江の時代の日本酒
今年のNHK大河ドラマは『江』(ごう)ですね。浅井長政とお市の間に産まれた姫様です。長女の茶々は後の世の淀君。次女の初は京極家へ嫁ぎます。主人公の江は二代将軍・徳川秀忠に嫁ぎます。三代将軍家光の母であり、大阪冬の陣・夏の陣では、姉と戦うことになります。まさに激動の時代を生きた女性の一生を描いたものでしょう。
さて、戦国の後期の日本酒はどんなものだったのでしょうか?。
この時代、日本酒を醸したところとして、城下町や門前町の商人、お寺や神社などで醸されていました。
流通も活発であったのでしょう。京都(洛中)では、各地の日本酒が集まり、品質・価格で競争があっていたようです。その中で、品質が優れて有名になったブランド酒があります。
・摂津西宮の旨酒
・加賀の菊酒
・博多の練貫酒
・伊豆の江川酒
・近江坂本の酒
・備前児島の酒
・尾道三原の酒
・豊前小倉の酒
・伏見の酒
加藤百一著「日本の酒 5,000年」技報堂出版より抜粋
◆諸白の登場と三段仕込み
戦国時代後半に「菩提泉」で名声を博した大和菩提山正歴寺で麹米・掛米の両方を、精白米を使った「諸白酒」が造られました。これ以前は、麹米は精米した米を使い、掛米はあまり精米しない片白酒が主流でした。全量を精米するということは、たいへん贅沢なことでした。
16世紀には、それまで京で最も評価の高かった河内天野山金剛寺の「天野酒(あまのしゅ)」と肩を並べるようになりました。この南都諸白はまもなく天野酒をも凌駕し、「天下一」の評判を得るようになります。
室町時代から戦国時代にかけて、三段仕込みの技術が確立されたと言われています。それと、寒造りが一般的となります。現在の酒づくりの原型が完成した時代です。
◆太閤秀吉も菊姫ファンだった。
創業は天正年間(1573~91年)頃。石川県鶴来町にある菊姫は、霊峰「富士山」・「立山」と並ぶ日本三名山の一つである白山連峰の麓にあります。古来より、芳醇な美酒と呼ばれてきた「加賀之菊酒」は、「太閤記」が伝えるところによると、太閤秀吉が醍醐の花見に、是非にといってわざわざ取り寄せたという譽高き天下の銘酒でありました。
きっと、戦国に姫たちも飲んだことでしょう。
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06:28
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2011年01月23日
種子島 夢尽蔵 安納
種子島酒造 夢尽蔵『安納』 かめ壺仕込み黒麹
(鹿児島県種子島)
1800ml:2887円(税込)
◆ 安納 を醸す種子島酒造について
1543年・種子島に鉄砲が伝来
した島として有名な種子島を代表する焼酎蔵が種子島酒造です。
蔵の創立は明治15年。広島より焼酎造りの技術を持っていた創業者が、日本甘藷栽培初地でもある種子島の地で芋焼酎づくりを始めたのがきっかけとなって、以後120余年 芋焼酎が造られています。
酒蔵は種子島の北部に位置し、山間の鮮烈なる水を仕込み水として、主にさつま芋栽培に適した種子島産のさつま芋で焼酎が造られています。古い蔵の良さを残しつつ、大量生産に走らず、風味をより大事に考え日夜研鑚なさっておられます。
◆ 糖度日本一の「安納芋」について
「安納」は、種子島の安納地区だけでしか栽培されていない、最も甘くて美味しいさつまいも「安納芋」を、一般的な製法とは異なり炭火焼にしたものを原料として造られる芋焼酎を、加水などの加工を行わずそのまま瓶詰めした、大変贅沢な逸品です。原料の「安納芋」は、安納地区の契約農家で栽培されたものを使用しています。また、超軟水の深層地下水の甲山水と黒麹を使用し、1次・2次仕込み共にかめ壷仕込みで仕込まれています。
一般的に使用される「コガネセンガン」と比べ、甘みが豊富で、気品漂うきれいな風味を感じます。香りは落ち着いた中にも個性的な印象を与えます。ピリピリとした刺激もなくスムーズに味わいが広がっていきます。
【種子島 安納 黒麹造り25°】
(鹿児島県種子島)
1800ml:2887円(税込)
◆ 安納 を醸す種子島酒造について
1543年・種子島に鉄砲が伝来

蔵の創立は明治15年。広島より焼酎造りの技術を持っていた創業者が、日本甘藷栽培初地でもある種子島の地で芋焼酎づくりを始めたのがきっかけとなって、以後120余年 芋焼酎が造られています。
酒蔵は種子島の北部に位置し、山間の鮮烈なる水を仕込み水として、主にさつま芋栽培に適した種子島産のさつま芋で焼酎が造られています。古い蔵の良さを残しつつ、大量生産に走らず、風味をより大事に考え日夜研鑚なさっておられます。
◆ 糖度日本一の「安納芋」について
「安納」は、種子島の安納地区だけでしか栽培されていない、最も甘くて美味しいさつまいも「安納芋」を、一般的な製法とは異なり炭火焼にしたものを原料として造られる芋焼酎を、加水などの加工を行わずそのまま瓶詰めした、大変贅沢な逸品です。原料の「安納芋」は、安納地区の契約農家で栽培されたものを使用しています。また、超軟水の深層地下水の甲山水と黒麹を使用し、1次・2次仕込み共にかめ壷仕込みで仕込まれています。
一般的に使用される「コガネセンガン」と比べ、甘みが豊富で、気品漂うきれいな風味を感じます。香りは落ち着いた中にも個性的な印象を与えます。ピリピリとした刺激もなくスムーズに味わいが広がっていきます。
【種子島 安納 黒麹造り25°】
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11:22
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2011年01月22日
杜の蔵 『一の矢』 とれたて純米
日本酒を楽しもう 先ずは一献 №210
-杜の蔵 『一の矢』とれたて純米酒-
1800ml・2310円(税込)
◆ 筑後の銘酒 杜の蔵を訪ねる
筑後川の下流域の筑後平野は九州随一の穀倉地帯。九州随一の大河は、豊穣の実りをもたらしてくれる。豊穣な穀倉地帯には昔から多くの造り酒屋がある。筑後地方に数多くの酒蔵がある。また、柳川、三潴は杜氏輩出地域として全国的にも有名で、「柳川杜氏」「三潴杜氏」と評されている。米、技術、蔵という3つの条件が整った地域でもある。
福岡の地の利は、朝鮮半島や中国大陸にも近いことから、戦前は筑後の銘酒は朝鮮半島、中国大陸、満州へと輸出されていたそうだ。製造規模の割りに大きな土蔵は当時の繁栄がうかがえる。
酒蔵の歴史は明治31年。清酒と焼酎の両方の酒蔵を有する。日本酒は全て純米酒。焼酎は麦、米、そば、酒粕を原料に使用。釀造、蒸留ともにハイレベルの技術を誇る。
◆ とれたて純米『一の矢』
福岡の銘酒・杜の蔵から平成22年BY版。昨年に引き続き、今年度は22年12月に発売しました。
ラベルには、「はじめに採れたうすにごりの酒です。」と書いてあります。うっすらと、淡雪の如きオリの絡んだ、おりがらみ純米酒です。
香りほのか、フレッシュな淡く、若々しい香り。やわらかな口当たり、のど越しの奥にほのかな旨味を秘めています。全般的に、すっきりとした透明感のある辛口酒です。冷やして飲むのも美味しいですが、常温に近い温度で飲む方が「柔らかな」旨味を感じさせてくれます。
因みに、「一の矢」は最初に放つ矢の事。出来上がり、一発目の新酒という意味です。蔵元に隣接している弓道場から命名されたと聞きました。
【杜の蔵 一の矢】

原料米:福岡産 夢一献
精米歩合: 65%
日本酒度:?
酸 度:?
アミノ酸度:?
アルコール度数:15.5%
使用酵母 協会9号
価 格
1800ml:2310円(税込)
-杜の蔵 『一の矢』とれたて純米酒-
1800ml・2310円(税込)
◆ 筑後の銘酒 杜の蔵を訪ねる
筑後川の下流域の筑後平野は九州随一の穀倉地帯。九州随一の大河は、豊穣の実りをもたらしてくれる。豊穣な穀倉地帯には昔から多くの造り酒屋がある。筑後地方に数多くの酒蔵がある。また、柳川、三潴は杜氏輩出地域として全国的にも有名で、「柳川杜氏」「三潴杜氏」と評されている。米、技術、蔵という3つの条件が整った地域でもある。
福岡の地の利は、朝鮮半島や中国大陸にも近いことから、戦前は筑後の銘酒は朝鮮半島、中国大陸、満州へと輸出されていたそうだ。製造規模の割りに大きな土蔵は当時の繁栄がうかがえる。
酒蔵の歴史は明治31年。清酒と焼酎の両方の酒蔵を有する。日本酒は全て純米酒。焼酎は麦、米、そば、酒粕を原料に使用。釀造、蒸留ともにハイレベルの技術を誇る。
◆ とれたて純米『一の矢』
福岡の銘酒・杜の蔵から平成22年BY版。昨年に引き続き、今年度は22年12月に発売しました。
ラベルには、「はじめに採れたうすにごりの酒です。」と書いてあります。うっすらと、淡雪の如きオリの絡んだ、おりがらみ純米酒です。
香りほのか、フレッシュな淡く、若々しい香り。やわらかな口当たり、のど越しの奥にほのかな旨味を秘めています。全般的に、すっきりとした透明感のある辛口酒です。冷やして飲むのも美味しいですが、常温に近い温度で飲む方が「柔らかな」旨味を感じさせてくれます。
因みに、「一の矢」は最初に放つ矢の事。出来上がり、一発目の新酒という意味です。蔵元に隣接している弓道場から命名されたと聞きました。
【杜の蔵 一の矢】
原料米:福岡産 夢一献
精米歩合: 65%
日本酒度:?
酸 度:?
アミノ酸度:?
アルコール度数:15.5%
使用酵母 協会9号
価 格
1800ml:2310円(税込)
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08:03
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2011年01月21日
満寿泉 『花一献』 吟醸生酒
日本酒を楽しもう 先ずは一献 №209
-満寿泉 『花一献』吟醸生酒-
いよいよ発売!!
1800ml・3150円(税込)、720ml・1837円
◆ 君知るや、銘酒・満寿泉
『富山に満寿泉あり』。製造石数は決して大きくない。むしろ驚くほど小さいかもしれない。それなのに、銘酒の中の銘酒として、吟醸の世界で雄的存在の酒蔵なのは、緻密で優雅な吟醸の酒質にあります。
満寿泉を語る時に、名杜氏の存在を忘れてはならないのです。
この蔵を全国の名だたる吟醸蔵として育て上げたのが、現当主「枡田敬次郎氏」と能登杜氏四天王の一人「三盃幸一氏」。年間の製造石数2000石(1石=一升瓶100本)。驚くことは、その大半が吟醸酒であります。そして、約半分が精米歩合50%以下の大吟醸クラスであるということです。醸し出されるすべての酒は、妥協というものがなく、見事な吟醸酒なのです。
話を杜氏に戻します。三盃氏は、18歳で蔵人道に入門。父も祖父も親類も杜氏というエリート杜氏の家系に生まれた三盃杜氏。父の後を受けて満寿泉の杜氏に就任。手腕を大いに発揮した能登杜氏の筆頭と称されるようになりました。
三盃杜氏の醸す満寿泉は、麹をしっかり造り、吟醸香と旨味が溶けあう安定した綺麗な味わいの酒質を表現。全国新酒鑑評会でも早くから実績を残し、金賞受賞の常連蔵として「満寿泉」が北陸の吟醸酒のレベルを引き上げたと言っても過言ではありません。
◆ さらに緻密に、さらに優雅に
名杜氏・三盃杜氏も、第一線から退き、顧問的な立場にあります。次世代を担う、次期当主・桝田隆一郎氏を筆頭に、蔵人スタッフは若返えり、40代の蔵人も多い。次世代の蔵人は、もちろん師匠である三盃杜氏の酒づくりの流儀を心得ています。さらに緻密に、さらに優雅に、そしてさらにダイナミックに、豪快に酒の香味を進化させています。
そんな若き蔵人たちの生きざまを表現している酒が、本格的な吟醸酒として発売するのが立春「花一献」吟醸生であります。
◆ 2010BY満寿泉『花一献』について
若々しく華やいだ果実のような吟醸香、軽快な口当たりとツルツルした喉越しの中にほのかな甘さが広がり、フレッシュな酸とキレが調和するスッキリとした美味しさです。
新酒でありながら、満寿泉らしい綺麗でしっかりと味のある酒質に香味バランスの妙が味わえる一品。
名前の如く華やかな香味は、日本酒が苦手な方にもその美味しさを伝えることの出来る酒だと思います。この酒は立春大吉を運んでくれます。
-満寿泉 『花一献』吟醸生酒-
いよいよ発売!!
1800ml・3150円(税込)、720ml・1837円
◆ 君知るや、銘酒・満寿泉
『富山に満寿泉あり』。製造石数は決して大きくない。むしろ驚くほど小さいかもしれない。それなのに、銘酒の中の銘酒として、吟醸の世界で雄的存在の酒蔵なのは、緻密で優雅な吟醸の酒質にあります。
満寿泉を語る時に、名杜氏の存在を忘れてはならないのです。
この蔵を全国の名だたる吟醸蔵として育て上げたのが、現当主「枡田敬次郎氏」と能登杜氏四天王の一人「三盃幸一氏」。年間の製造石数2000石(1石=一升瓶100本)。驚くことは、その大半が吟醸酒であります。そして、約半分が精米歩合50%以下の大吟醸クラスであるということです。醸し出されるすべての酒は、妥協というものがなく、見事な吟醸酒なのです。
話を杜氏に戻します。三盃氏は、18歳で蔵人道に入門。父も祖父も親類も杜氏というエリート杜氏の家系に生まれた三盃杜氏。父の後を受けて満寿泉の杜氏に就任。手腕を大いに発揮した能登杜氏の筆頭と称されるようになりました。
三盃杜氏の醸す満寿泉は、麹をしっかり造り、吟醸香と旨味が溶けあう安定した綺麗な味わいの酒質を表現。全国新酒鑑評会でも早くから実績を残し、金賞受賞の常連蔵として「満寿泉」が北陸の吟醸酒のレベルを引き上げたと言っても過言ではありません。
◆ さらに緻密に、さらに優雅に
名杜氏・三盃杜氏も、第一線から退き、顧問的な立場にあります。次世代を担う、次期当主・桝田隆一郎氏を筆頭に、蔵人スタッフは若返えり、40代の蔵人も多い。次世代の蔵人は、もちろん師匠である三盃杜氏の酒づくりの流儀を心得ています。さらに緻密に、さらに優雅に、そしてさらにダイナミックに、豪快に酒の香味を進化させています。
そんな若き蔵人たちの生きざまを表現している酒が、本格的な吟醸酒として発売するのが立春「花一献」吟醸生であります。
◆ 2010BY満寿泉『花一献』について
若々しく華やいだ果実のような吟醸香、軽快な口当たりとツルツルした喉越しの中にほのかな甘さが広がり、フレッシュな酸とキレが調和するスッキリとした美味しさです。
新酒でありながら、満寿泉らしい綺麗でしっかりと味のある酒質に香味バランスの妙が味わえる一品。
名前の如く華やかな香味は、日本酒が苦手な方にもその美味しさを伝えることの出来る酒だと思います。この酒は立春大吉を運んでくれます。
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06:39
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2011年01月21日
裏鍋島 純米吟醸生酒 隠し酒
日本酒を楽しもう 先ずは一献 №208
-裏鍋島 純米吟醸生酒 隠し酒-
1800ml・2630円(税込)
◆鍋島を醸す富久千代酒造について
江戸時代から続く風情ある街並みを残す、肥前浜宿(ひぜんはましゅく)。浜川沿いには、白壁土蔵造りの酒蔵が立ち並び、地元の人たちはこの通を「酒蔵通り」と呼んでいます。長崎街道多良往還(多良海道)の宿場町としてにぎわい、江戸時代に荷物の輸送拠点だった継場(つぎば)も修復され、新たな観光スポットとして人気です。継場は現在の郵便局といったところでしょうか。継場の前には馬の縄を縛っておく楔があり、当時の賑わいを垣間見ることができます。
その酒蔵通りは、「鍋島」を醸す富久千代酒造だけでなく「金波」「王将」「呉竹」「乾杯」「君恩」「万寿亀」などなど通りにはたくさんの造り酒屋があります。
そんな酒蔵通りの中で、美酒を醸すのは「鍋島」酒蔵当主でもあり、自らが酒を仕込むという・飯盛直喜さんです。
生産規模は500石といいますから、(1升瓶で年間5万本の生産量)、とっても小さな酒蔵です。
◆裏鍋島 純米吟醸生酒 隠し酒
この酒は、様々な純米吟醸の「セメ」と「あらばしり」のブレンドで造られた酒です。
酒の発酵が終わり、いよいよ酒と酒粕に分離する作業を上槽(じょうそう)といいます。酒を搾るともいいます。普通酒はヤブタという機械で搾りますが、吟醸酒はテフロン製の布にモロミを入れます。槽の中に布を重ねていきます。ちょうど水枕を重ねるようになります。
始めにほとばしる酒を「あらばしり」、中盤にでる酒を「中汲み」、そして最後に上から圧力を加えて搾り出す酒を「セメ」といいます。一つのモロミから、香味の異なる酒が生まれます。その最初と最後のブレンドをした酒が「裏鍋島」です。
◆ 今年の酒は、こんな感じかなぁ~
宇野功一コメント
【香り】
酸味を彷彿させるヨーグルトの香り。全体的に鍋島らしいみずみずしいイメージの香りです。
【味わい】
味わいは、白ワインを彷彿させる。あらばしり由来のシャープな酸味とセメ由来の芳醇な旨みの両方が相まって素敵なハーモニーを醸し出してくれます。
必ず、冷やで飲んでください。
開栓して飲むもの美味しいですが、開栓後2~3日後はさらに馴染んだ感じで旨いです。
-裏鍋島 純米吟醸生酒 隠し酒-
1800ml・2630円(税込)
◆鍋島を醸す富久千代酒造について
江戸時代から続く風情ある街並みを残す、肥前浜宿(ひぜんはましゅく)。浜川沿いには、白壁土蔵造りの酒蔵が立ち並び、地元の人たちはこの通を「酒蔵通り」と呼んでいます。長崎街道多良往還(多良海道)の宿場町としてにぎわい、江戸時代に荷物の輸送拠点だった継場(つぎば)も修復され、新たな観光スポットとして人気です。継場は現在の郵便局といったところでしょうか。継場の前には馬の縄を縛っておく楔があり、当時の賑わいを垣間見ることができます。
その酒蔵通りは、「鍋島」を醸す富久千代酒造だけでなく「金波」「王将」「呉竹」「乾杯」「君恩」「万寿亀」などなど通りにはたくさんの造り酒屋があります。
そんな酒蔵通りの中で、美酒を醸すのは「鍋島」酒蔵当主でもあり、自らが酒を仕込むという・飯盛直喜さんです。
生産規模は500石といいますから、(1升瓶で年間5万本の生産量)、とっても小さな酒蔵です。
◆裏鍋島 純米吟醸生酒 隠し酒
この酒は、様々な純米吟醸の「セメ」と「あらばしり」のブレンドで造られた酒です。
酒の発酵が終わり、いよいよ酒と酒粕に分離する作業を上槽(じょうそう)といいます。酒を搾るともいいます。普通酒はヤブタという機械で搾りますが、吟醸酒はテフロン製の布にモロミを入れます。槽の中に布を重ねていきます。ちょうど水枕を重ねるようになります。
始めにほとばしる酒を「あらばしり」、中盤にでる酒を「中汲み」、そして最後に上から圧力を加えて搾り出す酒を「セメ」といいます。一つのモロミから、香味の異なる酒が生まれます。その最初と最後のブレンドをした酒が「裏鍋島」です。
◆ 今年の酒は、こんな感じかなぁ~
宇野功一コメント
【香り】
酸味を彷彿させるヨーグルトの香り。全体的に鍋島らしいみずみずしいイメージの香りです。
【味わい】
味わいは、白ワインを彷彿させる。あらばしり由来のシャープな酸味とセメ由来の芳醇な旨みの両方が相まって素敵なハーモニーを醸し出してくれます。
必ず、冷やで飲んでください。
開栓して飲むもの美味しいですが、開栓後2~3日後はさらに馴染んだ感じで旨いです。
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06:34
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2011年01月19日
千石蔵のその後
-知っているようで知らない酒の話-第126号
千石蔵のその後
(昨日の続き)
■ 千石蔵が全国へ広がる
10石仕舞で、100日酒造りを行いますと、1000石の白米を、1000石の日本酒にすることになります。(昨日述べた)一年の厳冬期に一つの蔵で酒を仕込む量が千石です。そこで千石蔵と呼ばれるようになりました。
千石蔵が標準化されるようになりますと、一日に10石の米を蒸すための釜、仕込み樽、使う道具も標準化されれ、職人によって作り出されるようになります。標準化されることによって、無駄なく、無理なく、品質のよい酒をコンスタントに造り続けることができます。現在でいう自動車産業のベルトコンベアーのように、同じ作業を毎日繰り返すことによって酒を造り方法が取られました。安定して美酒ができるようになります。
江戸では灘の生一本の誉があがります。他地域(他藩)の酒蔵は、品質の高い灘の千石蔵を模倣するようになることは当然です。また、灘の流儀で酒を造る技術を持つ杜氏や蔵人をひと冬雇い入れる蔵もあったでしょう。プロ野球でいう、助っ人外人のようにも思えます。
明治以降、全国各地で、千石蔵が登場することになります。あなたの最寄りの酒蔵も、おそらく千石蔵かもしれませんよ。
■ 杜氏集団
柚木学著「酒造りの歴史」の本の中で、「仕込み期間の100日への短縮と量産化の技術が確立され、酒造マニュファクチャーの定型を確立する」と書かれてあります。
仕込工程に従事する蔵人たちの集団、杜氏を筆頭に、頭(かしら)、衛門(えもん)=代師(だいし)、釜屋(かまや)、上人(じょうびと)・下人(げにん)、飯焚(ままたき)等の職名で標準化されます。灘だけでなく全国の酒蔵で、使われるようになり、季節労働の制度として、ごく最近まで使われました。
千石蔵で上記の蔵人たちの集団は総勢約40名。若い蔵人は先ずは飯焚からスタートして、技を習得すると上の部署に格上げとなるのです。
酒づくりは、杜氏に対して請け負い契約の形で行われていましたので、酒づくりが終わる時に、ひと冬分の給料がチームの監督である杜氏に支払われ、分配されていたようです。
ひと冬100日、前後の作業を併せて120日・4カ月で、一年分の給料をもらう名杜氏もいました。杜氏の家は、農家としても篤農家で、牛や馬もいて、農業で稼ぎ、酒づくりでも稼ぐ。村の憧れの的であったでしょう。40名の蔵人をまとめるということで、酒づくりの技術のさることながら、人間として、リーダーとしての素養も兼備した人格者でした。
千石蔵のその後
(昨日の続き)
■ 千石蔵が全国へ広がる
10石仕舞で、100日酒造りを行いますと、1000石の白米を、1000石の日本酒にすることになります。(昨日述べた)一年の厳冬期に一つの蔵で酒を仕込む量が千石です。そこで千石蔵と呼ばれるようになりました。
千石蔵が標準化されるようになりますと、一日に10石の米を蒸すための釜、仕込み樽、使う道具も標準化されれ、職人によって作り出されるようになります。標準化されることによって、無駄なく、無理なく、品質のよい酒をコンスタントに造り続けることができます。現在でいう自動車産業のベルトコンベアーのように、同じ作業を毎日繰り返すことによって酒を造り方法が取られました。安定して美酒ができるようになります。
江戸では灘の生一本の誉があがります。他地域(他藩)の酒蔵は、品質の高い灘の千石蔵を模倣するようになることは当然です。また、灘の流儀で酒を造る技術を持つ杜氏や蔵人をひと冬雇い入れる蔵もあったでしょう。プロ野球でいう、助っ人外人のようにも思えます。
明治以降、全国各地で、千石蔵が登場することになります。あなたの最寄りの酒蔵も、おそらく千石蔵かもしれませんよ。
■ 杜氏集団
柚木学著「酒造りの歴史」の本の中で、「仕込み期間の100日への短縮と量産化の技術が確立され、酒造マニュファクチャーの定型を確立する」と書かれてあります。
仕込工程に従事する蔵人たちの集団、杜氏を筆頭に、頭(かしら)、衛門(えもん)=代師(だいし)、釜屋(かまや)、上人(じょうびと)・下人(げにん)、飯焚(ままたき)等の職名で標準化されます。灘だけでなく全国の酒蔵で、使われるようになり、季節労働の制度として、ごく最近まで使われました。
千石蔵で上記の蔵人たちの集団は総勢約40名。若い蔵人は先ずは飯焚からスタートして、技を習得すると上の部署に格上げとなるのです。
酒づくりは、杜氏に対して請け負い契約の形で行われていましたので、酒づくりが終わる時に、ひと冬分の給料がチームの監督である杜氏に支払われ、分配されていたようです。
ひと冬100日、前後の作業を併せて120日・4カ月で、一年分の給料をもらう名杜氏もいました。杜氏の家は、農家としても篤農家で、牛や馬もいて、農業で稼ぎ、酒づくりでも稼ぐ。村の憧れの的であったでしょう。40名の蔵人をまとめるということで、酒づくりの技術のさることながら、人間として、リーダーとしての素養も兼備した人格者でした。
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06:36
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2011年01月18日
千石蔵の登場
-知っているようで知らない酒の話-第125号
千石蔵の登場
■ 清酒の大量生産体制
『知っているようで知らない酒の話』№120、№121で、水車精米の話をしました。その時の概要は、江戸時代、灘は酒どころとして頭角を現します。それまでの墨をつくるための石臼を、精米に利用して、足踏み精米から水車精米に移行した話をしました。水車精米することにより、より精白歩合が高まり、ぐんと酒質が向上していきます。益々、人気が高くなってゆき、需要が増大して行きました。
■ 十水(とみず)の登場
江戸中期、現在の酒づくりとほぼ変わらない仕込みが行われるようになりました。というより、その仕込みを行えば、効率よく高品質の酒が生産できるので、現在までその方法を基本として、酒づくりが行われていると言った方が正しいでしょう。
それが、「十水」(とみず)です。十水とは、蒸米10石に対して、水を1石、水の量を増やし、酒を仕込むことです。現在もほぼこの仕込みを踏襲しています。
10石という量は、1石が約150㎏ですので、10石は約1500㎏です。10石の白米を、甑で蒸し、酒を造ります。すると、10石の清酒が出来上がります。1石が180ℓ=一升瓶で100本ですので10石ならば1800ℓ=一升瓶で1000本。
1回の仕込みで10石=1000本の酒ができることになります。
■ 日仕舞いで100日
江戸時代中期・文化文政年間、酒造りにおいて、杜氏制度が確立して行きました。杜氏とは酒づくりに従事する職人集団のことをいいます。杜氏や蔵人は、春に苗を育て、田植えをして、秋に米を収穫する農家です。冬場に、酒蔵に出稼ぎに行き、ひと冬、約3カ月(約100日)酒づくりを行います。そして、春には故郷に戻り、再び苗を育てるという一年のリズムで生活を営んでいます。
冬場の季節雇用で、灘の酒蔵は、酒造りをするようになりました。10石仕舞の酒づくりを、100日間、毎日行うとします。
10石×100日=1000石
すると、ひと冬で、お酒が1000石出来上がります。「千石蔵」という言葉が生まれます。千石は1つの酒蔵の年間の酒の生産量ということになります。
このような体制がすでにこの時代に出来上がっていたのにびっくりします。そして、銘酒の誉れが高くなり、1000石で酒が足りなければ、もう一つ蔵を造り、また1000石を生産するのです。現在のように、一つの仕込みを大きくするのではなく、蔵を増やす形で、増石して行きます。一つの仕込みの量を増やすには、桶から琺瑯タンクの登場を待たなければなりません。
千石蔵の登場
■ 清酒の大量生産体制
『知っているようで知らない酒の話』№120、№121で、水車精米の話をしました。その時の概要は、江戸時代、灘は酒どころとして頭角を現します。それまでの墨をつくるための石臼を、精米に利用して、足踏み精米から水車精米に移行した話をしました。水車精米することにより、より精白歩合が高まり、ぐんと酒質が向上していきます。益々、人気が高くなってゆき、需要が増大して行きました。
■ 十水(とみず)の登場
江戸中期、現在の酒づくりとほぼ変わらない仕込みが行われるようになりました。というより、その仕込みを行えば、効率よく高品質の酒が生産できるので、現在までその方法を基本として、酒づくりが行われていると言った方が正しいでしょう。
それが、「十水」(とみず)です。十水とは、蒸米10石に対して、水を1石、水の量を増やし、酒を仕込むことです。現在もほぼこの仕込みを踏襲しています。
10石という量は、1石が約150㎏ですので、10石は約1500㎏です。10石の白米を、甑で蒸し、酒を造ります。すると、10石の清酒が出来上がります。1石が180ℓ=一升瓶で100本ですので10石ならば1800ℓ=一升瓶で1000本。
1回の仕込みで10石=1000本の酒ができることになります。
■ 日仕舞いで100日
江戸時代中期・文化文政年間、酒造りにおいて、杜氏制度が確立して行きました。杜氏とは酒づくりに従事する職人集団のことをいいます。杜氏や蔵人は、春に苗を育て、田植えをして、秋に米を収穫する農家です。冬場に、酒蔵に出稼ぎに行き、ひと冬、約3カ月(約100日)酒づくりを行います。そして、春には故郷に戻り、再び苗を育てるという一年のリズムで生活を営んでいます。
冬場の季節雇用で、灘の酒蔵は、酒造りをするようになりました。10石仕舞の酒づくりを、100日間、毎日行うとします。
10石×100日=1000石
すると、ひと冬で、お酒が1000石出来上がります。「千石蔵」という言葉が生まれます。千石は1つの酒蔵の年間の酒の生産量ということになります。
このような体制がすでにこの時代に出来上がっていたのにびっくりします。そして、銘酒の誉れが高くなり、1000石で酒が足りなければ、もう一つ蔵を造り、また1000石を生産するのです。現在のように、一つの仕込みを大きくするのではなく、蔵を増やす形で、増石して行きます。一つの仕込みの量を増やすには、桶から琺瑯タンクの登場を待たなければなりません。
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06:23
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2011年01月17日
知っているようで知らない酒の話№124 お酒の栄養について
知っているようで知らない酒の話 №124
■ お酒の栄養分について
日本酒は醸造酒です。お米を主原料にして仕込み、そのもろみを搾ったものです。醸造酒では世界一のアルコールをつくりだし、米のもつ微量栄養分を溶かし込んだ飲み物といえます。
冨士を描いて有名な大画伯は、一日に2升の酒を毎日飲んだ。70才を過ぎても1升を飲み干したといわれています。ほんとうにお酒だけを飲んで、健康に毎日を過ごすことができるのでしょうか。
例にあげた大画伯の他にも、日本酒だけで過ごしたという話は幾つもあります。日本酒には米から溶けだしたいろんな養分が溶け込んでいますから、完全な食物ではありませんが、酒だけでも生きられるといいます。
一方、蒸留酒の方は、アルコールというエネルギーだけですから、人体が必要とする各種の栄養分はまったくないわけです。
大画伯の場合は、お酒の他に季節ごとの旬の肴があったことでしょう。これなら栄養の偏りも是正されますから、天寿ををまっとうできたのも当然のことです。
そのような食生活をまねて見たいものです。でもやるとなるといろいろな難しさがありそうです。
一日に1升もの日本酒を飲むのですから、酔っぱらっていて仕事にならないという体質では駄目ですね。程良い陶酔の中で、名作を生み出す力がなければなりません。
いい酒を飲まねばならないでしょう。酒に溺れてだんだんアルコールの強い酒に移っていって体をこわした例もたくさんあります。
もし、大画伯のような「酒仙」になろうとするなら、いい酒を知ること。そしてその酒に合う旬の料理を知ることが大事なようです。
やってみたい生き方ですね。(JS)
■ お酒の栄養分について
日本酒は醸造酒です。お米を主原料にして仕込み、そのもろみを搾ったものです。醸造酒では世界一のアルコールをつくりだし、米のもつ微量栄養分を溶かし込んだ飲み物といえます。
冨士を描いて有名な大画伯は、一日に2升の酒を毎日飲んだ。70才を過ぎても1升を飲み干したといわれています。ほんとうにお酒だけを飲んで、健康に毎日を過ごすことができるのでしょうか。
例にあげた大画伯の他にも、日本酒だけで過ごしたという話は幾つもあります。日本酒には米から溶けだしたいろんな養分が溶け込んでいますから、完全な食物ではありませんが、酒だけでも生きられるといいます。
一方、蒸留酒の方は、アルコールというエネルギーだけですから、人体が必要とする各種の栄養分はまったくないわけです。
大画伯の場合は、お酒の他に季節ごとの旬の肴があったことでしょう。これなら栄養の偏りも是正されますから、天寿ををまっとうできたのも当然のことです。
そのような食生活をまねて見たいものです。でもやるとなるといろいろな難しさがありそうです。
一日に1升もの日本酒を飲むのですから、酔っぱらっていて仕事にならないという体質では駄目ですね。程良い陶酔の中で、名作を生み出す力がなければなりません。
いい酒を飲まねばならないでしょう。酒に溺れてだんだんアルコールの強い酒に移っていって体をこわした例もたくさんあります。
もし、大画伯のような「酒仙」になろうとするなら、いい酒を知ること。そしてその酒に合う旬の料理を知ることが大事なようです。
やってみたい生き方ですね。(JS)
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06:05
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2011年01月17日
日本ばさるく№1 龍馬とお龍がたずねた塩浸温泉と佐藤
日本ばさるく ① 龍馬とお龍が訪ねた塩浸温泉と佐藤酒造
■ 肥薩線を楽しむ
明治維新後約140年を過ぎて、日本国民という概念が普通になった今日ですが、明治維新直後は、日本人とか日本国民という概念が無かった若しくは理解が難しかったかもしれません。農民や職人、商人にはそんな感覚が無かったであろうし、武士はそれぞれの藩から禄を戴くという主従関係で成立している以上、藩人という感覚であったでしょう。
明治になり、藩がなくなり、人々や物流が藩を越えて、国内自由に行き来できるようになりました。最も明治の人々が、明治維新、文明開化を実感してくるのが全国に隈なく敷設さえていった鉄道、そのレールの上を走る丘蒸気の景色だったかもしれません。
小さな政府だった明治時代、民活なくして、鉄道や学校、あらゆる公共的な事業はできなかったのでしょう。九州でも鉄道建設が進みました。民営鉄道として開業した九州鉄道は、今日の鹿児島本線の建設をし始めました。明治27(1894)年には、三角まで鹿児島本線が延伸しました。鹿児島への鉄道建設が急務でした。八代から海岸沿いに建設するルートと、人吉を経て山岳を通るルートと2ルートで工事が始まります。海岸ルートは、海からロシア艦隊からの艦砲射撃により、鉄道が寸断される危険性が大きいことが予想されるとして、人吉を経て鹿児島へ抜ける現在の肥薩線のルートが、優先して建設されるようになります。日露戦争を見据えた方針なのでしょうが、いかにも明治政府らしい考え方に思えます。1909(明治42)年に鹿児島まで開通しました。肥薩線は1927(昭和2)年に、現在の海岸線を通る鹿児島本線ができるまでの18年間、鹿児島本線だったのです。トンネルや鉄橋は当時の本線として相応しいものであったし、開通100年を過ぎた今でも、当時のものを使っているため、肥薩線全体が鉄道遺産といっても過言ではありません。
八代から人吉は球磨川に沿って走る風景はなんとも素晴らしい。人吉~矢岳峠~吉松に至る峠越えは、2つのスイッチバック、ループトンネル、山頂から遠く錦江湾に浮かぶ桜島の眺めは、日本の鉄道車窓の中でトップクラスの眺めであります。吉松~隼人間は平坦な里を走り、隼人~鹿児島間は錦江湾と桜島が堪能できます。川、山、里、海と繰り広げられる車窓のドラマを楽しめるまさに乗り鉄に人気の車窓幕の内、車窓御節料理といえる究極の路線であります。
途中駅、八代駅の鮎弁当、人吉駅の鮎寿司や栗弁当、嘉例川駅の嘉例川弁当とそれぞれの特産品を加工した駅弁も楽しめます。眺めてよし、食べてよし、そして焼酎を飲んでよし。三拍子揃った路線です。
■龍馬とお龍(りょう)が訪ねた塩浸温泉
吉松は一昔前まで鉄道の要衝として栄えた町だ。今でも駅が大きく、空き地となっているところには、ヤードがひかれ、客車区や機関区がありました。吉松から川内川沿いに走っていた山野線が分岐し、都城へ向かう吉都線が分岐します。縦横に路線が交わるまさに要衝であったのです。
そこから、しばらく霧島山麓の麓を走る肥薩線。霧島温泉駅、次の嘉例川駅に滑り込みます。どちらかの駅で下車して、タクシーで走ると、塩浸温泉に着きます。新川の渓谷の沿った鄙びた温泉郷です。昨今の龍馬ブームで、塩浸温泉は全国的に有名になりました。なんと言っても、この温泉に坂本龍馬と妻・お龍が、日本人として初の新婚旅行に訪れた地であるからです。時は1866(慶応2)年3月でした。
■塩浸温泉を発掘したのは司馬遼太郎?
鄙びた温泉・塩浸も実は人々から忘れられた時代があり、それを一躍発掘したのは司馬遼太郎であると、私は思います。
『龍馬が行く』(六巻)霧島山の章を引用します。
(中略)
筆者は、この稿を書くにあたってこの地に行かねばならなかった。鹿児島県の観光案内書などをみても、龍馬が「此世の外か」とおもったほどに風光明媚なはずの塩浸温泉は、その地名さえ載っていない。
やむなく新日本分県地図の鹿児島県全図をひろげて、たんねんに地名をさがしてゆくと、霧島国立公園の圏内から西南へ離れた茶色っぽい山中に、
「塩浸」
という地名がある。こんにちは町村合併で牧園町という自治体に属しているらしい。そこで、鹿児島へ出かけ、空港で出あった知人の二、三人に、
「塩浸温泉はここからどれほどあります」ときくと、みなけげんな顔をした。そんな温泉はきいたことがない、という。
----------------------------
筆者・司馬がこの本を出したのが昭和40年ごろです。鹿児島の空港は現在の溝辺ではなく、鹿児島市錦江湾に近い鴨池にあった時代です。溝辺なら塩浸は近いので知っていたかも知れませんが、鹿児島市内の人には馴染みのなかった温泉郷であったと私は思いました。
筆者の文章引用続く
----------------------------
宿は、桜島がよくみえる鶴鳴館にきめ、そこへ入るなり、塩浸温泉を知っていますか、ときいたが、知らない。ずいぶん不安になっていたときに、やっと宿の若い専務がやってきて、「私は鉄砲猟にゆくので、その温泉は知っています」といってくれた。しかし行ったことはないという。「大変な山中です。いまは宿が一軒か二軒でそれも湯治宿です」
とにかく明朝ゆくことにきめ、土地のタクシー会社に電話をかけ、道路を研究しておいてもらうことにした。
「道は悪いですよ」
と、タクシー会社も、怖れをなしている様子だった。鹿児島から往復三時間あまりだろう、とそのタクシー会社の事務員は、地図をみながら推測した。むろん、どの運転手もそこへ行った者はないという。
私にすれば、道が悪かろうが宿が一軒しか無かろうが、とにかくそういう温泉が現実にあるということを知っただけで、十分に安堵した。
鹿児島県下には、指宿温泉とか、霧島温泉とかという天下著名な温泉があり、施設もおそろしいばかりに近代化されていて、交通公社などが新婚旅行のコースを組まされるときは、南九州ではこの二つの温泉をかならず入れる。
わざわざ京都から薩摩へ新婚旅行に出かけたこの道の草分けともいうべき龍馬のその温泉は、ほとんど地名さえ忘れられている。
翌朝、車で出発した。運転手は、なぜこの客がそんな温泉にゆくのか疑問だったらしくしきりとわけをきいた。
車は渓谷をのぼってゆく。
渓谷は、「新川渓谷」といわれ、霧島山に源を発する四つの細流が合流したものだという。岩が多く、瀞が青い。
途中、滝も多い。
「旦那は絵描きかね」
と、運転手は私の酔狂にあきれた。鹿児島の者でもこんな山中には来ませんよ、というのである。運転手はのどがかわくらしく、何度も渓流におりて、水を飲んだ。
塩浸は、古い温泉ではない。
1804年に猟師によって発見されたという。温泉の伝説では、足に弾傷うけた鶴が、渓谷にとびおりてきてはこの湯に浸かっていた。それを猟師がみて、鶴に効くなら人にも効くだろうと思い、自分の傷治療をこの湯でためしたところ、大いに験があった。
非常な評判になり、大いに栄えた。藩ではこの温泉を藩の管理にし、その収益で藩士の子弟の教育費にしたぐらいで、龍馬が入湯した当時は、宿の数も多かった。
いまも、牧園町の公営になっており、落札で公営宿の経営者をきめ、その収入は町の財政をわずかながらもうるおしている。
車が密林をぬけてふたたび渓谷ぞいの道に出たとき、
「ここに相違ない」
とおもわれる宿が一軒あった。なかに入って、ここが塩浸温泉ですか、といくと、若い女が、そうです、といった。「この温泉についていろいろたずねたいのですが」というと、われわれは何も知りませんと、宿の人々はいった。落札になっているため、いまは埼玉県の者が経営者(ゆもりさん)で、土地のことはよくわからない、というのである。
「吊り橋のそばにすんでいる加留部(かるべ)という年寄が土地では古いですから」
と、よんできてくれた。
やがて、真白な無精ひげで顔半分がうずまった頑丈そうな老人がやってきて、
「このさきの吊り橋のそばでタバコ屋をひらいている加留部昌でございます」と、名乗ってくれた。
「この湯もむかし栄えたものでしたがな」老人の記憶では、五十年前は、宿が七軒あったという。ぜんぶ二階づくりで、七軒で二千五百人は収容できた。それがさびれたのは、
「いい傷薬ができるようになったからでしょう。ことにペニシリンからこっちは、がったりとさびれました」
老人は、福岡県の人である。高等小学校のとき運動会で骨折し、それがなかなかなおらず。この湯へきた。三月ほどで多少よくなったので、宿で走り使いの仕事をもらい、働きながら療養した。やがて嫁ももらい、子供がうまれ、孫もできた。
「はい、家はまだ福岡にありますたい。この谷に温泉保養にきとるだけじゃけん。連れ合いですか、あれは、昨年、七十四で亡くなりました」
老人がこの谷に来ているあいだに第一次世界大戦があり、昭和の動乱や、第二次大戦もあったはずだが、すべて老人とは関係はない。
まことに桃源郷の囚われびとという感じのする気楽そうな人だったが、残念ながら坂本龍馬のことは初耳ですたい、といった。
少し長い引用になりました。坂本龍馬と妻・お龍が塩浸温泉を訪ねた1866(慶応2)年。1月21日に、坂本龍馬の仲介で、薩藩・小松帯刀京都屋敷にて、薩長同盟が締結されます。締結された夜、坂本龍馬は伏見の寺田屋で、幕士・京都見廻組、新撰組ら100名に襲撃されます。命がけで逃げます。左親指を深く斬られ出血がひどく重体。その後、西郷隆盛に奨められ、薩摩の塩浸温泉で療養することに決めてやってくるというわけです。
前述の加留部氏が、塩浸温泉が栄えたというのは、明治後半から大正時代にかけてということになります。ちょうど、肥薩線が全線開業した時期と一致します。鹿児島から本州へ、下関から釜山へ、そして朝鮮満州への往来には、その頃の人々は肥薩線を使ったでしょう。ペニシリンやアスピリンの薬の開発、新しい温泉郷の開発の影で、塩浸温泉は時流に取り残され、桃源郷となり、そして忘れさられた温泉だったのです。そして100年後、司馬遼太郎が『龍馬が行く』に載せ、140年後、NHK『龍馬伝』でさらに拍車をかけた形となっています。
■塩浸最寄りの佐藤酒造訪問
塩浸温泉の渓谷・新川を数キロ上流に向かいます。宿窪田という小さな開けた盆地に入ります。そこに佐藤黒麹で有名な佐藤酒造があります。
この酒造メーカーの面白いところは、塩浸温泉の栄枯盛衰に沿った形にあるということです。創業は1906(明治39)年。最も塩浸温泉が栄えることに創業しています。戦時中は原料が入らず、休業を余儀なくされますが、1952(昭和27)年に焼酎づくりを再開。1970(昭和45)年に協業組合に加盟するも、1984(昭和59)年に脱会して、独自の芋焼酎づくりを再び始めるのです。
■佐藤黒麹発売
1993(平成5)年に、品質のよい原料芋:コガネセンガンを朝堀りして、その日のうちに加工するという徹底した品質志向の芋焼酎「佐藤白麹」を発売します。1997(平成9)年に黒麹を使った「佐藤黒麹」を発売します。佐藤は当初より、3年以上タンクで熟成させた芳醇な香味の芋焼酎を世に出していました。折しも、芋焼酎が全国で人気となり、白麹・黒麹という味わいの違いを前面に押し出し徐徐に人気を集めます。
2003年に日経新聞によるなんでもランキングで、人気の焼酎ランキングで1位に輝き、それ以来、一気に飲んでみたいという焼酎酒徒の憧れの的となりました。
それでもなお、しっかりした原料、しっかりした熟成期間を経て、極端な増産をせずにコツコツと芋焼酎を造っています。冷凍芋を一切使わないのです。八月下旬から芋の収穫に合わせて芋焼酎仕込みが始まり、十二月下旬の霜が降りた後は焼酎の仕込みが終わります。
近くの関平鉱泉系の鮮烈な水で芋焼酎を仕込みます。万人を魅了する芳醇にして旨い焼酎が、肥薩線・塩浸温泉郷の近所にあります。
■ 肥薩線を楽しむ
明治維新後約140年を過ぎて、日本国民という概念が普通になった今日ですが、明治維新直後は、日本人とか日本国民という概念が無かった若しくは理解が難しかったかもしれません。農民や職人、商人にはそんな感覚が無かったであろうし、武士はそれぞれの藩から禄を戴くという主従関係で成立している以上、藩人という感覚であったでしょう。
明治になり、藩がなくなり、人々や物流が藩を越えて、国内自由に行き来できるようになりました。最も明治の人々が、明治維新、文明開化を実感してくるのが全国に隈なく敷設さえていった鉄道、そのレールの上を走る丘蒸気の景色だったかもしれません。
小さな政府だった明治時代、民活なくして、鉄道や学校、あらゆる公共的な事業はできなかったのでしょう。九州でも鉄道建設が進みました。民営鉄道として開業した九州鉄道は、今日の鹿児島本線の建設をし始めました。明治27(1894)年には、三角まで鹿児島本線が延伸しました。鹿児島への鉄道建設が急務でした。八代から海岸沿いに建設するルートと、人吉を経て山岳を通るルートと2ルートで工事が始まります。海岸ルートは、海からロシア艦隊からの艦砲射撃により、鉄道が寸断される危険性が大きいことが予想されるとして、人吉を経て鹿児島へ抜ける現在の肥薩線のルートが、優先して建設されるようになります。日露戦争を見据えた方針なのでしょうが、いかにも明治政府らしい考え方に思えます。1909(明治42)年に鹿児島まで開通しました。肥薩線は1927(昭和2)年に、現在の海岸線を通る鹿児島本線ができるまでの18年間、鹿児島本線だったのです。トンネルや鉄橋は当時の本線として相応しいものであったし、開通100年を過ぎた今でも、当時のものを使っているため、肥薩線全体が鉄道遺産といっても過言ではありません。
八代から人吉は球磨川に沿って走る風景はなんとも素晴らしい。人吉~矢岳峠~吉松に至る峠越えは、2つのスイッチバック、ループトンネル、山頂から遠く錦江湾に浮かぶ桜島の眺めは、日本の鉄道車窓の中でトップクラスの眺めであります。吉松~隼人間は平坦な里を走り、隼人~鹿児島間は錦江湾と桜島が堪能できます。川、山、里、海と繰り広げられる車窓のドラマを楽しめるまさに乗り鉄に人気の車窓幕の内、車窓御節料理といえる究極の路線であります。
途中駅、八代駅の鮎弁当、人吉駅の鮎寿司や栗弁当、嘉例川駅の嘉例川弁当とそれぞれの特産品を加工した駅弁も楽しめます。眺めてよし、食べてよし、そして焼酎を飲んでよし。三拍子揃った路線です。
■龍馬とお龍(りょう)が訪ねた塩浸温泉
吉松は一昔前まで鉄道の要衝として栄えた町だ。今でも駅が大きく、空き地となっているところには、ヤードがひかれ、客車区や機関区がありました。吉松から川内川沿いに走っていた山野線が分岐し、都城へ向かう吉都線が分岐します。縦横に路線が交わるまさに要衝であったのです。
そこから、しばらく霧島山麓の麓を走る肥薩線。霧島温泉駅、次の嘉例川駅に滑り込みます。どちらかの駅で下車して、タクシーで走ると、塩浸温泉に着きます。新川の渓谷の沿った鄙びた温泉郷です。昨今の龍馬ブームで、塩浸温泉は全国的に有名になりました。なんと言っても、この温泉に坂本龍馬と妻・お龍が、日本人として初の新婚旅行に訪れた地であるからです。時は1866(慶応2)年3月でした。
■塩浸温泉を発掘したのは司馬遼太郎?
鄙びた温泉・塩浸も実は人々から忘れられた時代があり、それを一躍発掘したのは司馬遼太郎であると、私は思います。
『龍馬が行く』(六巻)霧島山の章を引用します。
(中略)
筆者は、この稿を書くにあたってこの地に行かねばならなかった。鹿児島県の観光案内書などをみても、龍馬が「此世の外か」とおもったほどに風光明媚なはずの塩浸温泉は、その地名さえ載っていない。
やむなく新日本分県地図の鹿児島県全図をひろげて、たんねんに地名をさがしてゆくと、霧島国立公園の圏内から西南へ離れた茶色っぽい山中に、
「塩浸」
という地名がある。こんにちは町村合併で牧園町という自治体に属しているらしい。そこで、鹿児島へ出かけ、空港で出あった知人の二、三人に、
「塩浸温泉はここからどれほどあります」ときくと、みなけげんな顔をした。そんな温泉はきいたことがない、という。
----------------------------
筆者・司馬がこの本を出したのが昭和40年ごろです。鹿児島の空港は現在の溝辺ではなく、鹿児島市錦江湾に近い鴨池にあった時代です。溝辺なら塩浸は近いので知っていたかも知れませんが、鹿児島市内の人には馴染みのなかった温泉郷であったと私は思いました。
筆者の文章引用続く
----------------------------
宿は、桜島がよくみえる鶴鳴館にきめ、そこへ入るなり、塩浸温泉を知っていますか、ときいたが、知らない。ずいぶん不安になっていたときに、やっと宿の若い専務がやってきて、「私は鉄砲猟にゆくので、その温泉は知っています」といってくれた。しかし行ったことはないという。「大変な山中です。いまは宿が一軒か二軒でそれも湯治宿です」
とにかく明朝ゆくことにきめ、土地のタクシー会社に電話をかけ、道路を研究しておいてもらうことにした。
「道は悪いですよ」
と、タクシー会社も、怖れをなしている様子だった。鹿児島から往復三時間あまりだろう、とそのタクシー会社の事務員は、地図をみながら推測した。むろん、どの運転手もそこへ行った者はないという。
私にすれば、道が悪かろうが宿が一軒しか無かろうが、とにかくそういう温泉が現実にあるということを知っただけで、十分に安堵した。
鹿児島県下には、指宿温泉とか、霧島温泉とかという天下著名な温泉があり、施設もおそろしいばかりに近代化されていて、交通公社などが新婚旅行のコースを組まされるときは、南九州ではこの二つの温泉をかならず入れる。
わざわざ京都から薩摩へ新婚旅行に出かけたこの道の草分けともいうべき龍馬のその温泉は、ほとんど地名さえ忘れられている。
翌朝、車で出発した。運転手は、なぜこの客がそんな温泉にゆくのか疑問だったらしくしきりとわけをきいた。
車は渓谷をのぼってゆく。
渓谷は、「新川渓谷」といわれ、霧島山に源を発する四つの細流が合流したものだという。岩が多く、瀞が青い。
途中、滝も多い。
「旦那は絵描きかね」
と、運転手は私の酔狂にあきれた。鹿児島の者でもこんな山中には来ませんよ、というのである。運転手はのどがかわくらしく、何度も渓流におりて、水を飲んだ。
塩浸は、古い温泉ではない。
1804年に猟師によって発見されたという。温泉の伝説では、足に弾傷うけた鶴が、渓谷にとびおりてきてはこの湯に浸かっていた。それを猟師がみて、鶴に効くなら人にも効くだろうと思い、自分の傷治療をこの湯でためしたところ、大いに験があった。
非常な評判になり、大いに栄えた。藩ではこの温泉を藩の管理にし、その収益で藩士の子弟の教育費にしたぐらいで、龍馬が入湯した当時は、宿の数も多かった。
いまも、牧園町の公営になっており、落札で公営宿の経営者をきめ、その収入は町の財政をわずかながらもうるおしている。
車が密林をぬけてふたたび渓谷ぞいの道に出たとき、
「ここに相違ない」
とおもわれる宿が一軒あった。なかに入って、ここが塩浸温泉ですか、といくと、若い女が、そうです、といった。「この温泉についていろいろたずねたいのですが」というと、われわれは何も知りませんと、宿の人々はいった。落札になっているため、いまは埼玉県の者が経営者(ゆもりさん)で、土地のことはよくわからない、というのである。
「吊り橋のそばにすんでいる加留部(かるべ)という年寄が土地では古いですから」
と、よんできてくれた。
やがて、真白な無精ひげで顔半分がうずまった頑丈そうな老人がやってきて、
「このさきの吊り橋のそばでタバコ屋をひらいている加留部昌でございます」と、名乗ってくれた。
「この湯もむかし栄えたものでしたがな」老人の記憶では、五十年前は、宿が七軒あったという。ぜんぶ二階づくりで、七軒で二千五百人は収容できた。それがさびれたのは、
「いい傷薬ができるようになったからでしょう。ことにペニシリンからこっちは、がったりとさびれました」
老人は、福岡県の人である。高等小学校のとき運動会で骨折し、それがなかなかなおらず。この湯へきた。三月ほどで多少よくなったので、宿で走り使いの仕事をもらい、働きながら療養した。やがて嫁ももらい、子供がうまれ、孫もできた。
「はい、家はまだ福岡にありますたい。この谷に温泉保養にきとるだけじゃけん。連れ合いですか、あれは、昨年、七十四で亡くなりました」
老人がこの谷に来ているあいだに第一次世界大戦があり、昭和の動乱や、第二次大戦もあったはずだが、すべて老人とは関係はない。
まことに桃源郷の囚われびとという感じのする気楽そうな人だったが、残念ながら坂本龍馬のことは初耳ですたい、といった。
少し長い引用になりました。坂本龍馬と妻・お龍が塩浸温泉を訪ねた1866(慶応2)年。1月21日に、坂本龍馬の仲介で、薩藩・小松帯刀京都屋敷にて、薩長同盟が締結されます。締結された夜、坂本龍馬は伏見の寺田屋で、幕士・京都見廻組、新撰組ら100名に襲撃されます。命がけで逃げます。左親指を深く斬られ出血がひどく重体。その後、西郷隆盛に奨められ、薩摩の塩浸温泉で療養することに決めてやってくるというわけです。
前述の加留部氏が、塩浸温泉が栄えたというのは、明治後半から大正時代にかけてということになります。ちょうど、肥薩線が全線開業した時期と一致します。鹿児島から本州へ、下関から釜山へ、そして朝鮮満州への往来には、その頃の人々は肥薩線を使ったでしょう。ペニシリンやアスピリンの薬の開発、新しい温泉郷の開発の影で、塩浸温泉は時流に取り残され、桃源郷となり、そして忘れさられた温泉だったのです。そして100年後、司馬遼太郎が『龍馬が行く』に載せ、140年後、NHK『龍馬伝』でさらに拍車をかけた形となっています。
■塩浸最寄りの佐藤酒造訪問
塩浸温泉の渓谷・新川を数キロ上流に向かいます。宿窪田という小さな開けた盆地に入ります。そこに佐藤黒麹で有名な佐藤酒造があります。
この酒造メーカーの面白いところは、塩浸温泉の栄枯盛衰に沿った形にあるということです。創業は1906(明治39)年。最も塩浸温泉が栄えることに創業しています。戦時中は原料が入らず、休業を余儀なくされますが、1952(昭和27)年に焼酎づくりを再開。1970(昭和45)年に協業組合に加盟するも、1984(昭和59)年に脱会して、独自の芋焼酎づくりを再び始めるのです。
■佐藤黒麹発売
1993(平成5)年に、品質のよい原料芋:コガネセンガンを朝堀りして、その日のうちに加工するという徹底した品質志向の芋焼酎「佐藤白麹」を発売します。1997(平成9)年に黒麹を使った「佐藤黒麹」を発売します。佐藤は当初より、3年以上タンクで熟成させた芳醇な香味の芋焼酎を世に出していました。折しも、芋焼酎が全国で人気となり、白麹・黒麹という味わいの違いを前面に押し出し徐徐に人気を集めます。
2003年に日経新聞によるなんでもランキングで、人気の焼酎ランキングで1位に輝き、それ以来、一気に飲んでみたいという焼酎酒徒の憧れの的となりました。
それでもなお、しっかりした原料、しっかりした熟成期間を経て、極端な増産をせずにコツコツと芋焼酎を造っています。冷凍芋を一切使わないのです。八月下旬から芋の収穫に合わせて芋焼酎仕込みが始まり、十二月下旬の霜が降りた後は焼酎の仕込みが終わります。
近くの関平鉱泉系の鮮烈な水で芋焼酎を仕込みます。万人を魅了する芳醇にして旨い焼酎が、肥薩線・塩浸温泉郷の近所にあります。
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06:02
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2011年01月14日
開運 県知事賞受賞酒 大吟醸
日本酒を楽しもう 先ずは一献 №207
-開運 県知事賞受賞酒 大吟醸-
720ml・5250円(税込)
◆ 名杜氏・波瀬正吉の流儀を受け継ぐ
2009(平成21)年07月16日にご逝去された日本の屈指の名杜氏・波瀬正吉氏。能登杜氏の四天王の一人として活躍し、能登流の酒づくりで、静岡の酒の発展に努めた功績は大きい。波瀬正吉は、「開運」土井酒造場で、約40年の長きにわたり杜氏を務めた。その間、全国新酒鑑評会やさまざまな酒の品評会において、輝かしい功績を残したことは日本酒業界では広く知れ渡っている。
~新たなる酒づくり~
波瀬杜氏の流儀を受け継ぎ、土井酒造場の若手蔵人が、平成21BYより酒づくりをスタート。受け継いだ能登・波瀬正吉流酒づくりの技術の集大成でタンク1本、大吟醸の仕込みに挑んだ。原料米や使用酵母は波瀬杜氏のころとなんら変わらない。波瀬杜氏より託された蔵人たちは、酒を仕込みながら、「こんな時、杜氏だったら~とうする」と思い酒を仕込んだという。
出来た酒は、爽やかで洗練された吟醸香がたち、透明感溢れる味わいの中にバナナやデリシャスリンゴを彷彿させる含み。これまでの「波瀬正吉」と見劣りせぬ出来栄えの酒であった。土井清幌社長は、波瀬正吉の名に恥じぬ出来栄え。見事、静岡県知事賞を受賞した。その時の出品酒をそのまま瓶詰めした酒だ。
◆ 開運 新潟県知事賞 2年連続受賞酒 大吟醸について
美酒造り一筋、名実共に全国にその名を馳せる静岡の名醸蔵「開運」が、吟味厳選された原料と最高峰の醸造技術を駆使し、渾身の力を注いで醸し上げる出品大吟醸です。今年度は静岡県清酒鑑評会の「吟醸酒の部」にて、唯一の最高賞となる「県知事賞」を2年連続受賞されています。原料米には、兵庫県特A地区の特上山田錦を全量に使用し、麹米を40%、掛米を35%まで磨き上げ、静岡独自のHD-1酵母を用いて仕込んだ大吟醸の中取りです。能登流四天王の一人「故・波瀬正吉杜氏」が、培ってきた永年の経験と技術を惜しみなく注ぎ込んで醸したとても付加価値の高い逸品です。華やかさと膨らみのある素晴らしい味わいには、多くの人を魅了する美味しさがあります。酒好きはもちろん、開運の出品大吟醸を飲んだことの無い方は是非一度ご賞味下さい。今年も素晴らしいです。
【開運 県知事賞受賞酒 大吟醸】
原料米 :兵庫県産 山田錦
精米歩合:麹米40%、掛米35%
日本酒度:+7.0
酸度 :1.2
アミノ酸度:0.9
アルコール:18.5%
使用酵母:静岡酵母HD-1
問合先
㈲たわらや酒店
〒869-1101 熊本県菊池郡菊陽町津久礼2211番地1号
電話番号096-232-3138
ファックス 096-232-3368
メール info@tawaraya-sake.co.jp
-開運 県知事賞受賞酒 大吟醸-
720ml・5250円(税込)
◆ 名杜氏・波瀬正吉の流儀を受け継ぐ
2009(平成21)年07月16日にご逝去された日本の屈指の名杜氏・波瀬正吉氏。能登杜氏の四天王の一人として活躍し、能登流の酒づくりで、静岡の酒の発展に努めた功績は大きい。波瀬正吉は、「開運」土井酒造場で、約40年の長きにわたり杜氏を務めた。その間、全国新酒鑑評会やさまざまな酒の品評会において、輝かしい功績を残したことは日本酒業界では広く知れ渡っている。
~新たなる酒づくり~
波瀬杜氏の流儀を受け継ぎ、土井酒造場の若手蔵人が、平成21BYより酒づくりをスタート。受け継いだ能登・波瀬正吉流酒づくりの技術の集大成でタンク1本、大吟醸の仕込みに挑んだ。原料米や使用酵母は波瀬杜氏のころとなんら変わらない。波瀬杜氏より託された蔵人たちは、酒を仕込みながら、「こんな時、杜氏だったら~とうする」と思い酒を仕込んだという。
出来た酒は、爽やかで洗練された吟醸香がたち、透明感溢れる味わいの中にバナナやデリシャスリンゴを彷彿させる含み。これまでの「波瀬正吉」と見劣りせぬ出来栄えの酒であった。土井清幌社長は、波瀬正吉の名に恥じぬ出来栄え。見事、静岡県知事賞を受賞した。その時の出品酒をそのまま瓶詰めした酒だ。
◆ 開運 新潟県知事賞 2年連続受賞酒 大吟醸について
美酒造り一筋、名実共に全国にその名を馳せる静岡の名醸蔵「開運」が、吟味厳選された原料と最高峰の醸造技術を駆使し、渾身の力を注いで醸し上げる出品大吟醸です。今年度は静岡県清酒鑑評会の「吟醸酒の部」にて、唯一の最高賞となる「県知事賞」を2年連続受賞されています。原料米には、兵庫県特A地区の特上山田錦を全量に使用し、麹米を40%、掛米を35%まで磨き上げ、静岡独自のHD-1酵母を用いて仕込んだ大吟醸の中取りです。能登流四天王の一人「故・波瀬正吉杜氏」が、培ってきた永年の経験と技術を惜しみなく注ぎ込んで醸したとても付加価値の高い逸品です。華やかさと膨らみのある素晴らしい味わいには、多くの人を魅了する美味しさがあります。酒好きはもちろん、開運の出品大吟醸を飲んだことの無い方は是非一度ご賞味下さい。今年も素晴らしいです。
【開運 県知事賞受賞酒 大吟醸】
原料米 :兵庫県産 山田錦
精米歩合:麹米40%、掛米35%
日本酒度:+7.0
酸度 :1.2
アミノ酸度:0.9
アルコール:18.5%
使用酵母:静岡酵母HD-1
問合先
㈲たわらや酒店
〒869-1101 熊本県菊池郡菊陽町津久礼2211番地1号
電話番号096-232-3138
ファックス 096-232-3368
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06:37
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2011年01月13日
ハイブリッドについて考える
-知っているようで知らない酒の話-第123号
ハイブリッドについて考える
「ハイブリッド」について、広辞苑を引く。・・・①雑種。②異種のものの混成物。と書いてある。もっと詳しく書いてあるのかと思ったが、たったそれだけである。近年使われることが多くなった外来語なのだろう。
ハイブリッドというと、最近の環境対策・低燃費の自動車を思い出す方が多いのでは。2つ以上のモーターを使って低燃費を実現するというもの。在来のガソリンエンジンに、電気エンジンを組み合わせるとか・・・。
もう一つは、ハイブリッド種。害虫に強いとか、寒冷に強いとか、在来品種のものよりも、際立って特殊な環境に強い動植物にも使われている。
◆ そもそも日本文化自体がハイブリッドばかり
ハイブリッドというから何となく新しいもののように思うが、古来から、日本文化自体がハイブリッドの塊のようなものであると思う。それは、文化を中国大陸から学び、さまざまなものを吸収して、独自の日本文化を創造してきた。日本語の言葉や文字もハイブリッドの塊りである。漢字は中国、文の並びは朝鮮、やわらかな発音は南方の島々から伝わったと司馬遼太郎は言っている。
◆ らしさの追求
日本においてハイブリッドがたくさん存在するということを先ほど述べたが、どんなものがあるだろうか。明治時代に、舶来の文化がどっと日本に押し寄せた。さまざまなものが日本人に使いやすい、食べやすいものに消化して、日本らしい新しい物を造り出した。
例えば、アンパンがそうだろう。パンという西洋からのものと、餡という日本の甘味を組み合わせて、日本人らしい新しいパンの世界を造り出した。
例えば、すき焼きもそうだろう。牛肉を食べるという習慣が入ってきて、醤油や味醂など日本人の好まれる味付けにして食した。
焼酎もそうかもしれない。ポルトガルから蒸留器が入ってきた。「アランビック」と称した。清酒を蒸留したと思う。焼酎を「アランビック」が訛り「あらびき」と称する地域もある。
文化というと響きはとてもいい。さまざまな地域や国で培われたものが、他の地域、国、民族に入ってくる。日本にもさまざまなものが入ってきた。日本は元来が島国であったがゆえに、大陸から進んだ文化を積極的に受け入れ、我々日本人に使いやすいようにしてきた。「らしさ」の追求がここにある。
さて、混沌とした昨今。ハイブリッドの精神で未来を切り開きたい。
ハイブリッドについて考える
「ハイブリッド」について、広辞苑を引く。・・・①雑種。②異種のものの混成物。と書いてある。もっと詳しく書いてあるのかと思ったが、たったそれだけである。近年使われることが多くなった外来語なのだろう。
ハイブリッドというと、最近の環境対策・低燃費の自動車を思い出す方が多いのでは。2つ以上のモーターを使って低燃費を実現するというもの。在来のガソリンエンジンに、電気エンジンを組み合わせるとか・・・。
もう一つは、ハイブリッド種。害虫に強いとか、寒冷に強いとか、在来品種のものよりも、際立って特殊な環境に強い動植物にも使われている。
◆ そもそも日本文化自体がハイブリッドばかり
ハイブリッドというから何となく新しいもののように思うが、古来から、日本文化自体がハイブリッドの塊のようなものであると思う。それは、文化を中国大陸から学び、さまざまなものを吸収して、独自の日本文化を創造してきた。日本語の言葉や文字もハイブリッドの塊りである。漢字は中国、文の並びは朝鮮、やわらかな発音は南方の島々から伝わったと司馬遼太郎は言っている。
◆ らしさの追求
日本においてハイブリッドがたくさん存在するということを先ほど述べたが、どんなものがあるだろうか。明治時代に、舶来の文化がどっと日本に押し寄せた。さまざまなものが日本人に使いやすい、食べやすいものに消化して、日本らしい新しい物を造り出した。
例えば、アンパンがそうだろう。パンという西洋からのものと、餡という日本の甘味を組み合わせて、日本人らしい新しいパンの世界を造り出した。
例えば、すき焼きもそうだろう。牛肉を食べるという習慣が入ってきて、醤油や味醂など日本人の好まれる味付けにして食した。
焼酎もそうかもしれない。ポルトガルから蒸留器が入ってきた。「アランビック」と称した。清酒を蒸留したと思う。焼酎を「アランビック」が訛り「あらびき」と称する地域もある。
文化というと響きはとてもいい。さまざまな地域や国で培われたものが、他の地域、国、民族に入ってくる。日本にもさまざまなものが入ってきた。日本は元来が島国であったがゆえに、大陸から進んだ文化を積極的に受け入れ、我々日本人に使いやすいようにしてきた。「らしさ」の追求がここにある。
さて、混沌とした昨今。ハイブリッドの精神で未来を切り開きたい。
Posted by たわらや at
06:22
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2011年01月12日
例えばの農業経済
例えばの農業経済
■ 例えばの…日本農業
今の日本において、一人当たりお米の年間消費量は60㎏(1俵)を下回ったと報じられています。お米は穀物で、日本において、唯一自給できる最後の作物なのに残念な状況になっています。日本全体で、米の生産量は年間800万~900万tと言われています。菅総理がまたまた、たまたまなのか政治のまな板の上に上程したTPP論争。このままでは、日本農業を切腹の事態に追い込むことになるのではないかと私は思います。
余談ですが、私が高校時代に、地理、現代社会を教えてくれた故・H先生の言葉を思い出します。先生は、早稲田大政経卒。教諭というより、大学の教授以上に貫録があり、ある種大物政治家のような方でありました。
「日本のお米は高い。御飯1膳で約50円だ。海外の米は日本の米の1/10程度。御飯1膳でたった5円。パーセントでいうと10倍の開きだが、45円を惜しむのは如何なものか。食糧は自給しなければ、国は潰れてしまう。君たちが大人になった時、きっと話題になる問題だ。」
先生がそう言ったのは1987年であったので、24年たった今日、まさにその通りになってきました。
今年は、国民のみんなで食糧自給のことをもっと議論して、未来の食糧自給について行動指針を決める時期に来ているように思います。
■ 加工をして海外へ輸出せよ
例えば、今年から国民一人当たり、日本酒を昨年の倍の量、消費するとします。といっても、一升瓶にして3本(5.4ℓ)です。使用する白米は3㎏。精白歩合50%ならば玄米で6㎏。この量は、現在の日本で生産される米の1割となります。
お米を食しないのであれば、これを加工したものを食べてもらったり、飲んでもらったりすることももっと考えるべきでは。
中国を含めて、近隣のアジアの方々にもっと日本の米で造った日本酒や焼酎を飲んでもらいたい。味噌や醤油など加工食品を食べてもらいたいものです。
現在、瑞穂の国と評されてきた日本の国土の約1%が耕作放棄地となっています。面積にして埼玉県に匹敵する広大な水田が耕されていないのです。農家の高齢化が進む中、耕作放棄地は今後も増えるでしょう。
日本の田舎の風景を守ることは、環境も守ることです。都市で使う水を守っています。酸素を作り出しています。
大胆な政策を打ち出す時期です。私が政治家ならば、耕作放棄地に酒米(加工米)を植えることを奨励します。耕作放棄地を国有化して、農業に取り組みたい若者を雇い入れる政策もいいでは。デンマークのように祖先が耕した作地を大切にしたい。
■ 例えばの…日本農業
今の日本において、一人当たりお米の年間消費量は60㎏(1俵)を下回ったと報じられています。お米は穀物で、日本において、唯一自給できる最後の作物なのに残念な状況になっています。日本全体で、米の生産量は年間800万~900万tと言われています。菅総理がまたまた、たまたまなのか政治のまな板の上に上程したTPP論争。このままでは、日本農業を切腹の事態に追い込むことになるのではないかと私は思います。
余談ですが、私が高校時代に、地理、現代社会を教えてくれた故・H先生の言葉を思い出します。先生は、早稲田大政経卒。教諭というより、大学の教授以上に貫録があり、ある種大物政治家のような方でありました。
「日本のお米は高い。御飯1膳で約50円だ。海外の米は日本の米の1/10程度。御飯1膳でたった5円。パーセントでいうと10倍の開きだが、45円を惜しむのは如何なものか。食糧は自給しなければ、国は潰れてしまう。君たちが大人になった時、きっと話題になる問題だ。」
先生がそう言ったのは1987年であったので、24年たった今日、まさにその通りになってきました。
今年は、国民のみんなで食糧自給のことをもっと議論して、未来の食糧自給について行動指針を決める時期に来ているように思います。
■ 加工をして海外へ輸出せよ
例えば、今年から国民一人当たり、日本酒を昨年の倍の量、消費するとします。といっても、一升瓶にして3本(5.4ℓ)です。使用する白米は3㎏。精白歩合50%ならば玄米で6㎏。この量は、現在の日本で生産される米の1割となります。
お米を食しないのであれば、これを加工したものを食べてもらったり、飲んでもらったりすることももっと考えるべきでは。
中国を含めて、近隣のアジアの方々にもっと日本の米で造った日本酒や焼酎を飲んでもらいたい。味噌や醤油など加工食品を食べてもらいたいものです。
現在、瑞穂の国と評されてきた日本の国土の約1%が耕作放棄地となっています。面積にして埼玉県に匹敵する広大な水田が耕されていないのです。農家の高齢化が進む中、耕作放棄地は今後も増えるでしょう。
日本の田舎の風景を守ることは、環境も守ることです。都市で使う水を守っています。酸素を作り出しています。
大胆な政策を打ち出す時期です。私が政治家ならば、耕作放棄地に酒米(加工米)を植えることを奨励します。耕作放棄地を国有化して、農業に取り組みたい若者を雇い入れる政策もいいでは。デンマークのように祖先が耕した作地を大切にしたい。
Posted by たわらや at
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