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Posted by おてもやん at

2011年08月08日

次男・光の誕生日に「ひかり」について考える

08月08日号:国鉄全線完全乗車雑話
- 次男・光の誕生日に「ひかり」について考える -


■ 次男・光の誕生日

 今日は次男・光(ひかり)の誕生日です。今年で5歳となりました。今日は「ひかり」について考察してみたいと思います。

■ 青いひかりの超特急

 「ひかり」と言えば、なんといっても、東海道・山陽新幹線の超特急の名称が「ひかり」でしたね。開業当初は各駅に停車する「こだま」と主要駅にしか停車しない「ひかり」でした。しかし、平成4年に「ひかり」よりも早い新幹線「のぞみ」が登場して、「ひかり」の存在力が低下してしまっていますが…。


■「ひかり」は大陸を駆ける急行だった
 「ひかり」号という愛称が登場するのは実は戦前だったのです。「ひかり」号は釜山~奉天を結んだ連絡急行列車でした。
 1933年(昭和8)年当時。特急「冨士」が東京を15:00に出発すると、下関に翌朝09:35に到着。関釜連絡船10:30に出港すると、釜山に18:00に到着。それで連絡していたのが急行「ひかり」号でした。釜山から奉天(現在の瀋陽)まで、大陸をかけて往年の優等列車が「ひかり」号でした。当時のダイヤですと
釜山19:20→京城(ソウル)03:05→平壌07:33→16:20奉天。
戦前は東京から奉天(瀋陽)まで2泊3日かかっていたのですね。奉天では、大連~ハルピン間を結んでいた特急「あじあ」号が連絡していました。

■ 戦後の「ひかり」は九州を駆ける


昭和39年 急行「ひかり」号

 昭和33年、準急「ひかり」号が復活します。実は、たわらや酒店の前の豊肥本線を走っていました。熊本~(豊肥本線)~大分。ここで、西鹿児島から日豊線を走ってきた「ひかり」号と併結。そして小倉で2両は門司港行に、残りは博多へ向うという複雑な運用でした。まとめると熊本/西鹿児島⇔博多/門司港ということになります。その後、昭和36年には急行に格上げになります。

■ 経済大国へ・日本の大動脈へ
 昭和39年、オリンピック開催に併せて東海道新幹線・東京~新大阪間が開業になります。「ひかり」の愛称は東海道新幹線に譲られることになりました。0系の新幹線は青いひかりの超特急として、子どもたちの憧れの的でした。
 このように「ひかり」の愛称は、時代の変遷とともに進化していきました。いつの時代も、みんなに人気の列車だったのが「ひかり」です。





 我が家の「ひかり」もみんなに好かれる人になってもらいたいです。
  


Posted by たわらや at 10:14Comments(0)