2011年07月11日

コラム・呑んどっと №24 江戸へ酒樽を運んだ樽廻船その2 

07月11日号:コラム・呑んどっと №24
- 江戸へ酒樽を運んだ樽廻船 その2 -


■ 桧垣廻船

 元和(げんな)5(1619)年、泉州堺の商人が紀州富田浦の250石積みの廻船を借り受けて、大阪~江戸への日常物資を運送したのが始まりです。千石船の四分の一の小さな和船で物資運送がスタートしています。瀬戸内海にあった船がベースになっています。

 廻船という名前は貞応2年(1223年)に書かれた廻船式目(しきもく、箇条書きにした船法度、海事法規)に見られ、商船の意味に用いられました。やがて、大坂・伝法に廻船問屋が成立。1624年には、大阪北浜の和泉屋平右衛門を皮切りに次々と江戸積の廻船問屋が開業しました。将軍様のお膝元・江戸と天下の台所・大阪。人の往来は東海道五十三次が担い、物の往来は廻船が担いました。まさに、海の東海道だったのです。



■ 入り鉄砲に、出女(でおんな)

 一つ、疑問が起こります。人の輸送も廻船が担えばよいということになります。江戸幕府は物資の輸送に廻船問屋を利用することは認めても、人の往来は街道を利用させました。江戸とそれぞれの領地に隔年往来する参勤交代でも、東海道を敢えて利用させています。船による人の往来を極力避けていました。

 東海道には、大きな関が2つあります。江戸を出る大きな関所が、箱根の関でした。
『入り鉄砲に、出女(でおんな)』という言葉を聴いたことがありますか?。箱根の関で江戸に入ってくる武器・火器・槍・弓などの検査はたいへん厳しかったといいます。同じように江戸から離れる女性の検査もたいへんであったといいます。

 幕府に謀反を起こす武器を排除することが目的であったし、各藩の江戸屋敷でいわば人質となっている大名の奥方が、町人風情等に変装をして、江戸から逃げ出すことを防ぐのが目的であったといいます。

 箱根の関で、江戸から上方へ向かう方には、男性を吟味する部屋と、女性を吟味する部屋とがあったといいます。男性の吟味は意外と簡単にパスをしてくれたそうです。が、女性はたいへんだったそうです。吟味部屋はおよそ10畳。調度品など一切飾りけの無い部屋に、吟味役の人見女が二人 座していた。五十を過ぎた愛想のないのが人見女の特徴。にこりともせず、言わば、女版の閻魔大王といった感じであったといいます。

(続く)




Posted by たわらや at 06:00│Comments(0)
 
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