2011年02月26日

仰清正公 №16 大石運び

-仰清正公- №16 大石運び 
清正公生誕450年没後400年・九州新幹線全線開業記念企画


■第16話「大石運び」

 北の庄を落城させ、長浜に戻った加藤虎之助清正は、かつての幼馴染、今は武将として活躍している森本利吉、飯田才八の二人に新しい名前を授けた。

 森本利吉は森本義太夫、飯田才八は飯田角兵衛となる。天承11年、三人とも22歳であった。

 北の庄に柴田勝家を滅ぼした羽柴秀吉は、全国に号令をかけるための城は大阪に築こうと思っていた。織田信長も同じような構想をもっていたらしいが、明智光秀の反逆にあって実現できなかった。

 場所は信長が長く争ったのち和睦した石山本願寺である。ここは河内平野の米の収穫が期待され、城の脇には淀川がある。これを導けば堀が築けるし、淀川を通じて海にも開けている。

 八町四方の石山寺を中心に、二の丸三の丸を築くという大構想であった。この石山に武将を招いた秀吉は、北の庄一番槍は加藤虎之助とし、四百七十石の知行に三千石が加増された。ともに福島市松、片桐助作、平野権兵衛、脇坂陣内、粕谷助右衛門なども加増された。

 大阪城の普請奉行は浅野長政、益田長盛に決まった。天承11年7月、秀吉が大阪城築城にかかったとき、全国から一万人の人即が集められた。

 秀吉は石山の敷地に宿泊用の小屋を建てた。それから、八層の天主の建築にかかる。この重曹の天主を支える石は相当大きいものではなければならない。蜂須賀正勝はその大石が小豆島にあることを告げ、運搬を加藤虎之助に明治、その辺の地理に明るい男として正林隼人・しょうばやしはやと・を紹介してよこした。その男は「摂津の国高槻の在、正林の生まれで土地の名を名乗り正林隼人」と名乗った。経歴を聞くと「荒木摂津の守に仕え一千石の知行をいただいていた」という。浪人の後小豆島に暮らしたのでどこにどんな石があるかわかるという。蜂須賀正勝には人足として仕え、見出されたとのこと。

 小豆島の西南に問前島というところがあり、ここを虎之助は本陣として石を切り出した。五十畳敷きの大石を大船に乗せ、周囲に小舟を浮き代わり

にして淀川から陸揚げし、大阪城壁の京橋口に据えられた。これを台石として石垣が築かれた。

 正林隼人は、小豆島での働きで虎之助の家来に取り立てられた。(JS)





Posted by たわらや at 23:00│Comments(0)
 
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