2011年02月25日

コラム・呑んどっと №20 江戸時代のデフォルトと商人 後編

-コラム・呑んどっと-№20
江戸時代のデフォルトと商人 後編


■ 固定した知行高

 日本じゅうの禄高を、一つの基準に基づいて把握したのは豊臣秀吉の太閤検知であります。この検知により、日本じゅう各地の知行を知ることができました。
 江戸に入り、戦国の世から平和な時代へ。寛永2(1625)年、三代将軍・家光は旗本屋敷地を知行高に応じて定めました。これにより、毎年の禄高が固定することになります。5000石の旗本は、子も孫も5000石の旗本なのです。1石は1両という相場は固定していました。
 ところが、世が移り、受け取る石高は変わらないのです。生活には欠かせない薪や油、屋敷を修繕にやってくる修繕屋の手間賃、屋台の蕎麦の料金、舗で販売しているだんごや饅頭や寿司など、ありとあらゆるもの物価が徐々に高騰していくのです。収入が固定となっている武士は物価高騰分、生活は苦しくなります。また、知行の大小によって、それ相当の下男・下女を雇わなければならないという時代です。その費用も騰がるばかりでした。
 武士は喰わねど高楊枝…という武士の面子が詠われたのはこのようなことからでしょう。不足を補うために札差から、来年受取る予定のお米を担保に金子(きんす)を用立てしたのです。その金利が年利18%。立ち行かなくのは目に見えていますね。

 寛政元(1789)年、寛政の改革の一環として、老中・松平定信は棄捐令を出しました。5年前の1784年以前の旗本・御家人の借金をすべて棒引きにする法。これが施行されると札差は以後、申し合わせたように一切お金を用立てしなくなります。
 これまで、大いに消費をしていた札差(商人)は一切の贅沢をやめたといいます。吉原に人がいなくなったといいます。
 旗本・御家人は益々苦しくなりました。
 幕末の天保14(1843)年にも同じように棄捐令が出されました。

 少し話が飛躍するかもしれませんが、各藩でも同じような措置がなされ、商人は御上に金を貸しても返ってこないというのが定説になったと思います。
 江戸時代、各街道の各宿で、酒造業を営んだ近江出身の商人たちもそうでした。時代が大きく変わり、明治になります。これらの商人は明治新政府にも冷たく、岩崎弥太郎のような新生の実業家が銀行を興し、殖産興業化政策の一翼を担うことになります。それなりの財を有していた酒造業の旦那衆は、銀行を経営するぐらいできたのでしょうが、そういったことはしていません。棄捐令がトラウマとなったことは事実のようです。




Posted by たわらや at 06:00│Comments(0)
 
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