2011年02月23日
仰清正公 №12 跡目争い
-仰清正公- №13 跡目争い
清正公生誕450年没後400年・九州新幹線全線開業記念企画
■第13話「跡目争い」
織田信長が死んだ跡の跡目は、信長の次男信勝と三男信孝のいずれかになりそうだが、この二人は仲が悪かった。本能寺の変の後、信勝は安土城に入ったが、火を出して城を消失する。信孝は羽柴秀吉について山崎合戦に加わったので後を継ぐ有利さがあった。
跡目を決めるその評定は、天承十年六月二十七日、清洲城で開かれた。
信長の武将で上席は柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興らである。信勝、信孝も清洲には来ていたが評定には出なかった。
堀秀政も出席していたが、徳川家康は浜松で成り行きを見守っていた。加藤虎之助も秀吉に従って清洲城に入った。会議には出られず、福島市松とともに控え室にいた。
評定は秀吉が仕切っていた。秀吉が押したのは二条御所で明智勢に攻められ自殺した信忠(のぶただ)の三歳になる三法師であった。その後見に信勝と信孝を立て、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、それに自身秀吉と織田家の重臣が守るというものだった。
三法師には近江の国坂田郡二万五千石を台所費用とし、堀秀政代官となる。
信勝には北伊勢に尾張の国を、信孝には美濃の国を与えた。
織田兄弟、重臣らにとって収まる話ではないが受けざるを得なかった。
新発田か費えは越前の国に加え、近江の長浜を求めた。京に近いからである。羽柴秀吉は播磨の国に山城と河内に明智の旧領、丹波を得た。
この話がまとまり、虎之助は秀吉に京都に潜入する命を受ける。秀吉に先んじて、京の人心をつかめという命令だ。詳しくは蜂須賀正勝に聞けという。正勝は戦いぶりもさることながら、人心を把握する特技があった。
虎之助は、話し合いの進め方を学び、さらにこれから進んでいく地域の人心がどうなのかを調べる実務を任されたのです。(JS)
清正公生誕450年没後400年・九州新幹線全線開業記念企画
■第13話「跡目争い」
織田信長が死んだ跡の跡目は、信長の次男信勝と三男信孝のいずれかになりそうだが、この二人は仲が悪かった。本能寺の変の後、信勝は安土城に入ったが、火を出して城を消失する。信孝は羽柴秀吉について山崎合戦に加わったので後を継ぐ有利さがあった。
跡目を決めるその評定は、天承十年六月二十七日、清洲城で開かれた。
信長の武将で上席は柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興らである。信勝、信孝も清洲には来ていたが評定には出なかった。
堀秀政も出席していたが、徳川家康は浜松で成り行きを見守っていた。加藤虎之助も秀吉に従って清洲城に入った。会議には出られず、福島市松とともに控え室にいた。
評定は秀吉が仕切っていた。秀吉が押したのは二条御所で明智勢に攻められ自殺した信忠(のぶただ)の三歳になる三法師であった。その後見に信勝と信孝を立て、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、それに自身秀吉と織田家の重臣が守るというものだった。
三法師には近江の国坂田郡二万五千石を台所費用とし、堀秀政代官となる。
信勝には北伊勢に尾張の国を、信孝には美濃の国を与えた。
織田兄弟、重臣らにとって収まる話ではないが受けざるを得なかった。
新発田か費えは越前の国に加え、近江の長浜を求めた。京に近いからである。羽柴秀吉は播磨の国に山城と河内に明智の旧領、丹波を得た。
この話がまとまり、虎之助は秀吉に京都に潜入する命を受ける。秀吉に先んじて、京の人心をつかめという命令だ。詳しくは蜂須賀正勝に聞けという。正勝は戦いぶりもさることながら、人心を把握する特技があった。
虎之助は、話し合いの進め方を学び、さらにこれから進んでいく地域の人心がどうなのかを調べる実務を任されたのです。(JS)
Posted by たわらや at 18:00│Comments(0)