2011年02月20日
仰清正公 №10 備中高松城水攻め
-仰清正公- №10 備中高松城水攻め
清正公生誕450年没後400年・九州新幹線全線開業記念企画
■第10話「備中高松城水攻め」
備中高松場は、中国の権威、毛利氏と同盟を組む清水宗治の居城である。宗治には織田信長が宗治にかなり有利な和睦案を提示していましたがこれを受け付けません。
羽柴秀吉は加藤虎之助が冠山城を落とすと、全兵力を高松城へ向かわせた。前の冠城にいた林三郎左衛門丞も高松場に入っていた。
高松場は備前との国境の小高い岡の上にある。北は山に囲まれ、東西に川、南は児島湾を臨み、城は田や沼に囲まれていた。城に迫るにはたんぼの中の細い道を通り、一騎討ちしながら攻めるしかない。
清水宗治は名将といわれ、篭城をすれば毛利勢が援助にくるのをしっている。時期は五月、雨の季節である。
羽柴軍は高松城の向かいの蛙が端に陣取った。高松城は降り続く雨の中、深い田と沼の区別もできない中にあった。農民や住民は避難してかいない。 織田信長はいずれ毛利軍と対決するために中国路に出張ってくる。秀吉はその前に高松城を落としたい。
秀吉が取った策戦は水攻めであった。水を絶つのではなく城を水没させようというのだ。
川を堰きとめて堤を築く。その長さ二十町(2160m)余、高さは5間(9m)という膨大なものである。
岡山から三千人の人足を呼び、このうちの二千人を堤づくりに投入する。
虎之助は武将・蜂須賀正勝の配下に任ぜられた。正勝は小六という名で夜盗をやっており、秀吉が日吉丸と呼ばれていたころ、矢作橋でであったというのはうそで、尾張の豪族の出である。
堤づくりを命じられた正勝は、土木に経験のあるものを頭にし、五百人に石や木材、土を運ばせて川をせき止める。千人には反対側の川を止めさせ、水門を作る。
堤づくりには十人を一組にして昼三交代夜三交代とした。石を敷き杭を立て土を盛る。水を導けばいい。出来具合より急がせた。二十六町の堤は正勝の計画通り五日で完成した。仕事ぶりに賞金を出したのが効いたらしい。
雨が降り続く中、城下の町民とたんぼの中の農家は金をもらい引き払った。
堤を作るのに、土俵一俵ごとに銭百文、米一升を与えたので近所のものも手伝った。
ドラの音を機に水門が引き上げられた。その夕方には高松城のそばまで水は迫った。堤には、十間(18m)ごとに陣を構えた。毛利軍に備えてのことである。着工以来十二日目であった。
この高松城水攻めは六月四日に清水宗治らの切腹自害で終焉する。
加藤虎之助清正は、高松城水攻めから、どのような攻撃にも耐えうる城づくりと、土木工事をいかに効率よくやるかを学んだのでしょう。(JS)
清正公生誕450年没後400年・九州新幹線全線開業記念企画
■第10話「備中高松城水攻め」
備中高松場は、中国の権威、毛利氏と同盟を組む清水宗治の居城である。宗治には織田信長が宗治にかなり有利な和睦案を提示していましたがこれを受け付けません。
羽柴秀吉は加藤虎之助が冠山城を落とすと、全兵力を高松城へ向かわせた。前の冠城にいた林三郎左衛門丞も高松場に入っていた。
高松場は備前との国境の小高い岡の上にある。北は山に囲まれ、東西に川、南は児島湾を臨み、城は田や沼に囲まれていた。城に迫るにはたんぼの中の細い道を通り、一騎討ちしながら攻めるしかない。
清水宗治は名将といわれ、篭城をすれば毛利勢が援助にくるのをしっている。時期は五月、雨の季節である。
羽柴軍は高松城の向かいの蛙が端に陣取った。高松城は降り続く雨の中、深い田と沼の区別もできない中にあった。農民や住民は避難してかいない。 織田信長はいずれ毛利軍と対決するために中国路に出張ってくる。秀吉はその前に高松城を落としたい。
秀吉が取った策戦は水攻めであった。水を絶つのではなく城を水没させようというのだ。
川を堰きとめて堤を築く。その長さ二十町(2160m)余、高さは5間(9m)という膨大なものである。
岡山から三千人の人足を呼び、このうちの二千人を堤づくりに投入する。
虎之助は武将・蜂須賀正勝の配下に任ぜられた。正勝は小六という名で夜盗をやっており、秀吉が日吉丸と呼ばれていたころ、矢作橋でであったというのはうそで、尾張の豪族の出である。
堤づくりを命じられた正勝は、土木に経験のあるものを頭にし、五百人に石や木材、土を運ばせて川をせき止める。千人には反対側の川を止めさせ、水門を作る。
堤づくりには十人を一組にして昼三交代夜三交代とした。石を敷き杭を立て土を盛る。水を導けばいい。出来具合より急がせた。二十六町の堤は正勝の計画通り五日で完成した。仕事ぶりに賞金を出したのが効いたらしい。
雨が降り続く中、城下の町民とたんぼの中の農家は金をもらい引き払った。
堤を作るのに、土俵一俵ごとに銭百文、米一升を与えたので近所のものも手伝った。
ドラの音を機に水門が引き上げられた。その夕方には高松城のそばまで水は迫った。堤には、十間(18m)ごとに陣を構えた。毛利軍に備えてのことである。着工以来十二日目であった。
この高松城水攻めは六月四日に清水宗治らの切腹自害で終焉する。
加藤虎之助清正は、高松城水攻めから、どのような攻撃にも耐えうる城づくりと、土木工事をいかに効率よくやるかを学んだのでしょう。(JS)
Posted by たわらや at 18:00│Comments(0)