2011年02月19日
仰清正公 №9 初陣
-仰清正公- №9 清正公となる
清正公生誕450年没後400年・九州新幹線全線開業記念企画
■第9話「初陣」
戦国武将が名を上げるにはそれなりの地位がなければならなかったようです。たとえば、いま語っている羽柴秀吉と加藤清正の関係の後に起きる本能寺の変、そしてその仕掛け人の明智光秀は名を残していますが、名もないお百姓に殺されました。そのお百姓その名は残らず、歴史の転換者は栄達もなく無名のまま歴史に埋没しています。
羽柴筑前守秀吉の部下になった加藤虎之助は、叔父加藤喜左衛門の配下であったわけで、戦場で武勲を立てても、よほどのことがなければ総大将秀吉の目に留まることはありません。さらにこの時点においては、秀吉でさえ、織田信長の配下だったのです。
虎之助の初陣は、中国遠征中の一端で、天承11年・虎之助21歳。のときのことです。
秀吉がブレーン会議の後、毛利方の猛将、林三郎右衛門が固める冠城の攻撃を虎之助に命じたからです。
守勢千人ぐらいの山城でしたが、櫓があって堀があって塀がめぐっている城を簡単に落とすわけにはいきません。虎之助は、叔父加藤喜左衛門以下の足軽を率い、夜明けに大手門と裏門から同時に攻め立てる。そのうえ、城の山側の草木に火を放って、夜明け早々に城を落とした。その上、捕虜の傷の手当などをやり、正午ごろ、秀吉のいる本陣に戻っているのですね。
つまり、初陣とはそれなりの役職にあり、命令を受け、計画よりいい結果を生んでこそほめられるものらしいですね。
その上、虎之助は手持ちの金で部下に酒を振舞い、敵味方の戦死者を地元の僧侶を招いて供養したという。それが秀吉の耳にも達したという話です。後のことは、講釈師でもこういう美談をくっつけるでしょうがね。(JS)
清正公生誕450年没後400年・九州新幹線全線開業記念企画
■第9話「初陣」
戦国武将が名を上げるにはそれなりの地位がなければならなかったようです。たとえば、いま語っている羽柴秀吉と加藤清正の関係の後に起きる本能寺の変、そしてその仕掛け人の明智光秀は名を残していますが、名もないお百姓に殺されました。そのお百姓その名は残らず、歴史の転換者は栄達もなく無名のまま歴史に埋没しています。
羽柴筑前守秀吉の部下になった加藤虎之助は、叔父加藤喜左衛門の配下であったわけで、戦場で武勲を立てても、よほどのことがなければ総大将秀吉の目に留まることはありません。さらにこの時点においては、秀吉でさえ、織田信長の配下だったのです。
虎之助の初陣は、中国遠征中の一端で、天承11年・虎之助21歳。のときのことです。
秀吉がブレーン会議の後、毛利方の猛将、林三郎右衛門が固める冠城の攻撃を虎之助に命じたからです。
守勢千人ぐらいの山城でしたが、櫓があって堀があって塀がめぐっている城を簡単に落とすわけにはいきません。虎之助は、叔父加藤喜左衛門以下の足軽を率い、夜明けに大手門と裏門から同時に攻め立てる。そのうえ、城の山側の草木に火を放って、夜明け早々に城を落とした。その上、捕虜の傷の手当などをやり、正午ごろ、秀吉のいる本陣に戻っているのですね。
つまり、初陣とはそれなりの役職にあり、命令を受け、計画よりいい結果を生んでこそほめられるものらしいですね。
その上、虎之助は手持ちの金で部下に酒を振舞い、敵味方の戦死者を地元の僧侶を招いて供養したという。それが秀吉の耳にも達したという話です。後のことは、講釈師でもこういう美談をくっつけるでしょうがね。(JS)
Posted by たわらや at 18:00│Comments(0)